文明って言うものに気がついてから...
いや、支配されてからは少なからずその方向に向かっていると思う。
多分全ての生き物の中で、唯一「死に対する恐怖感」を持っているんじゃないだろうか。
そしてそこから逃げている。
逃げて逃げて逃げ切ろうとしている。
ただ面白いのが、距離をとれば取るほど恐怖感は増している気がする。
社会が少し過保護になってきているのはその表れじゃないだろうか。
同時にその恐怖感が文明という生き物の正体なのだとも思う。
ところで不老不死に辿り着いたとして。
人にとって死と言うのが身近なものではなくなる、もしくは概念化する。
その中で「終わり」への恐怖を持ち続けるのか、それとも興味や渇望を持つのかが気になる。
何故か。
簡単な話、普段であれば人は空気が失われたら?なんてことを考えることは無い。
それは無くならないという、ある程度「暗黙の前提」があるからだと思う。
例えば江戸時代などは彗星が来るなんて話があれば息を止めてやり過ごしたなんて話がある。
これはどこからか「彗星が空気をもっていってしまう」なんて噂が出てきたかららしい。
当時の天文学がどこまで進んでいたかは知らないが、非常に面白い現象だ。
というのもこの話、彗星をやり過ごしてしまえば安泰となってしまう。
言い方を変えると「危機が去れば空気が無くなることはない」となるのだろうか。
逆の例として空気の喪失に恐怖を感じるのは洞窟、潜水艦などの閉鎖的環境が挙げられる。
この状況であれば多くの人が「もし崩落したら」「何かの故障で」と考えてしまうだろう。
実際にそんなことが起きていなくても、気分だけで少し息苦しくなる。
しかしそう極端に考えなければ「空気が無くなるなんて」と思うのが普通じゃないだろうか。
だからもし今後不老不死に辿り着いたとして。
死の概念から今よりずっと遠ざかり、意識すらもしなくなったときに「どう考えるか」が気になってしまう。
野生動物や文明に触れる前の人間などは死の概念を持っていないと思う。
多分「油断すれば終わり」というくらいに死という存在が近いからじゃないだろうか。
私たちで言う空気のように、当たり前にそこに存在するもので特別に疑う必要性が無い。
文明に生きる上で感じる「恐怖」というのはもしかすると概念を持ってしまったからかもしれない。
栄養価が変化し、より身の危険から遠ざかることで、身近で見えなかった死というものが視覚に入ってしまった。
だから一目散に逃げることで、自然と不老不死へと向かっているのだろう。
でも遠ざかれば遠ざかるほど怖くなる。
逃げても逃げても逃げても、後ろを振り返ればいつもそこに居る。
人は文明化してまで死の概念から逃げている。
だけど面白いもので、自殺というのは環境の良い国や先進国の方が多いらしい。
どちらかというと死の概念に近い国や地域のほうが恐怖感を感じていないのかもしれない。
だとすれば。
人がこの先不老不死に辿り着いたとしても恐怖に終われて生きて行くだろう。
まるで西遊記のように、ヤンチャなサルは釈迦の掌から抜け出すことはできないのかもしれない。
そして生きて逃げ切れない恐怖に対して打てる手段は...
と結論を書くと怖くて寝れなくなるかもしれないからやめておきましょう。
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