2013年5月31日金曜日

目玉焼き

私は重度ではないけど、卵アレルギーです。

...という前提での話になるんだけど、私は料理としての目玉焼きが苦手なのですよ。
だから朝食につきものの目玉焼きオンリー、もしくはベーコンエッグ的なものが現れると非常に凹む。
なので父方の祖父の家に行った時はいつも朝ごはんに困っていました。

祖父はハイカラな人で、朝は洋食。
しかもナイフとフォークを器用に使って食べるのが決まりでした。
横には当時なじみの無かった紅茶がありましたね。

目玉焼きはサニーサイドアップ(片面焼き)で半熟だったかな?
それに塩と胡椒をかけて食べてたような記憶があります。

祖父の目玉焼きは見てると美味しそうでした。
ただ実際食べると、やはり卵アレルギーの影響なのか、あの暖かくなった液状の黄身を食べると吐きたくなる。
なので確かいつも白身のみを、ほんのちょこっと貰っていました。

対して父は醤油派。
サニーサイドアップと半熟は同じなんですが、醤油をかけて食べる。
TKG(卵かけごはん)を考えても黄身を食べるなら確かにこれはあってるかもしれない。

疑問なのが、淡白な白身に醤油ってどうなんだろ?
私は味的に苦手でした。

母はソース派で両面、固め焼きです。
パッと見「お好み焼きか?」ってくらいしっかり焼きこみます。
ひっくり返すときに黄身が潰れて白身と差が無くなるため、ソースが調度いい味付けになります。

が...逆を言うとソースの味しかしないような...?
ちなみにこれだと辛うじて食べることが出来るんですが、まあ無理はしません。

そう言えば相方はどんな食べ方するのだろう。
多分食べられない私に遠慮して、目玉焼き食べてないと思うんですよね。

ところで不思議なんだけど、そんな苦手な目玉焼きもハンバーグやカレーと一緒なら食べれるんですよね。
多分黄身の存在感がグンッと下がってくれるからじゃないかと思います。

言い方は悪いけど「部品」としてなら体も抵抗が少ないみたいですね。

だから目玉焼きを食べるのに何をかける?と言う質問に対する私の答えはカレーが正解になりそうです。
でもカレーを食べるなら目玉焼きは別にいらないから、やっぱり滅多には食べないよね。

いつかカレーほど大袈裟にならない目玉焼きの友を探して...いや、アレルギー出るからダメだな。

そう言えば他にもケチャップやマヨネーズ、味噌なんかの意見もあるようですね。
これらを踏まえると要するに「塩分が足りてない食べ物」となるんでしょうか。

結局みんなが欲しいのは塩なのかもしれません。


ちょっとした反省

そう言えば先日のARTOROでの行動でちょっとした反省点を思い出した。
http://toro-museumshop.jp/artoro

葉っぱを取るときの出来事。
私は木に登って採ったのだけど、それではない。

こっちの葉っぱが大きいよ!

という事務員さんの言葉に動き出して、葉っぱを採りなおした。
そのときに小学生かな?の女の子2人にそれをあげてしまったのだ。

やさしいね!

みたいな発言が外からあったんだけど、正直「しまった...」と思った。
これは参加型のイベントであって、その作業に触れることが勉強であり収穫。
だから畑からの粘土の採取だって自分たちでやっているわけだ。

こうして私が「採ってあげてしまう」ことで、彼女たちのチャンスを潰してしまうことになる。
特に葉っぱは目の前の高さにあったのだから私がやる意味がない。

なので自然や歴史、知識と触れ合う意味のある体験を1つ奪ってしまったため、現在非常に反省をしている。

2013年5月30日木曜日

セパタクローと私。

世の中は基本的に自分と関係が無い世界で出来上がっていると思う。

自分と関係のない人が自分と関係ないことを起こし、自分が関わる前にいつの間にか終わっている。
普通に生きていればこれが99%以上を占めているんじゃないだろうか。

だから自分が目にするのは1%に満たない程度。
その中で喜んだり、悲しんだり、怒ったり、泣いたり、笑ったりする。

凄く広い目で見ると、感情とはなんか不毛だ。

題名に出てきたセパタクローも99%以上のうちの1つ。
全くもって自分と接点が無いし、多分今後生きていてもお互いに何も影響しない関係だと思う。

勝っても負けても私には関係ないし、笑っても泣いてもセパタクローには影響が無い。

だけどこの同じ地球に、同じ世界に、同じアジアに、同じように生きている。
そこで私と同じように喜んだり、悲しんだり、怒ったり、泣いたり、笑ったりしている人が居る。

接点が何一つないのに自分と同じ、不毛な感情が生まれては消えている。
個々を狭い目で見ると、感情とはなんか不思議だ。

そして、そう言う意味では多分世の中のほぼ100%は私と同じ人間なんだろう。

そんな同じ人間が同じ人間と競り合う、セパタクローという競技。
多分一生見ることはないが、多分一生忘れない存在だ。

2013年5月29日水曜日

学Q委員

初めて手を挙げたのは小学校の低学年のときかな?

学級委員、場所によってはクラス委員を決める話でした。
でも先生に「誰かやりたい人!」と言われるも、誰も手を挙げない。

結局そのまま10分間くらい決まらなかったような覚えがある。
詳しくは覚えてないんだけど、次に「この人なら!って人いる?」と聞かれた。

そうなると人気投票になってしまう。
いや、この場合は押し付ける目的だから不人気投票か?

当然クラスの中で「お前やれよ!やだよ!」の嫌な連鎖が始まる。
このままでは収拾がつかないと考えた私少年は1つの作戦を考えてみた。

当時は...というか今でもそうだけど、私は頼りにならない。
そのころから既にみんなはそれを知っている。

そんな奴がクラスの代表になったらどんな混乱が待っているかわからないだろう。

なら責任感のある人が続いて手を挙げて決選投票になるはず...
とまで細かいこと考えてませんで、なんとなく「焦らせよう」と思って手を挙げたわけです。

「じゃぁ僕やります!」

で、みんな案の定焦ったみたいなんですよ。
その後はトントン拍子に手を挙げ、決選投票になって落選。
私の計画通りになったわけです。

今考えるとなんかダチョウ倶楽部さんのネタみたいですね。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=QOmoHwV5xnE

しかし非常に失礼な話でもあるんですよ。
みんなやりたくない!って主張してるから「じゃぁやるよ」って言ったら「お前にだけは!!!」って。
我ながら、幼少期からどれだけ頼りない人間なんだと、若干凹みました。

でもまあ思い通り行ったから良いかな。

学級委員の話はこれから6年生までずっとこの方式で行きました。
なのでしばらくは採決に苦労した覚えがないですね。

いやぁ、人望ないなー。

しかし6年生の1学期に、担任の発言により問題が発生しました。
実はその先生、3年、5年、6年と延べ3年間私の担任を受け持ってくれたんですよね。
ただ非常に相性の悪いというか、かなり辛い思い出がある先生です。

で、その先生。

最早恒例となった私の心理作戦を見抜いたのか、空気が読めなかったのか。
手を挙げた私に向かって言い放ちました。

いつもそんなにやりたいんならやらしてあげるよ。

低学年からコツコツと6年間手を挙げ続けて。
挙げ続けて、挙げ続けて、挙げ続けても選ばれない可愛そうな子はついに学級委員となったとさ。

めでたしめでたし...じゃねぇってばよ!

ということで、最後の最後で面倒くさい仕事を実際にやる羽目になったわけです。
当然のごとくミスは連発、間違いは続出。

怒られるネタになる、殴られるネタになる、槍玉に上がる。
もう踏んだり蹴ったりな日々が待っていました。

挙句の果てに剣道部の主将まで選ばれてるんだから不思議な年でした。
まあそちらの方は涙が出るほど光栄だったけどね。

この幼少の時点で代表なんてやる人間性でもないし、なれるような器もないのがよくわかりました。

ただそれ以上によく理解できたのは「心理戦は勝てる勝負にのみ行え」と言うこと。
そして心理戦は惰性で続けるな、ということ。

うーん、色んな意味で良い勉強になりました。

マカ不思議。

1年ほど前だったかな?
コンビニでマカの元気(明治)という飲み物を見かけました。

そう言えば一時期流行ったような記憶が?

で、思い返してみると私の記憶にあるのがグレートマカ。
そう言えば一時期全日本の武藤さんがblogで推してたなぁ...
この動画は見たことないけどね。

置いてあったのが栄養剤のコーナー。

恐らく滋養強壮の栄養補給に的な、若干ソフトな感じじゃないかな。
ということで丁度体に疲れが溜まっていたので購入してみました。






するとどうでしょう。

みるみるうちに眠くなり、目がトローンとしてきます。
目覚ましのために買ったはずなのに、これじゃ閉店間際だよ!

しかし飲んじゃったものどうしようもない。
なんとかがんばって目を開き、帰宅と同時に寝床へと倒れこみました。
その時は寝ながら「多分余程疲れていたのだろう」と思いました。

でも心に引っかかるものがあったので、また後日に。
今度は体力に比較的余裕があるときに試してみました。

結果、またもや閉店モード。何故!?

他にも数回、例えば1日2本とか連日とかやってみましたが結果は同じ。
常に目が開かないレベルで眠くなってしまうんですよね。

私の体に合わないんだろうか?
でも目が覚めたときはスッキリしてるしな...

今度はコンビニではなく薬屋で。
日中に、違うマカ製品を飲んでみることにしました。

メーカーはわからないけど、明治のマカよりちょっとお値段が高かったです。
http://product.rakuten.co.jp/product/%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF%E7%B5%B6%E5%80%AB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%82%AB+50mL/db876d98f0e2894a1d5b76d809256393/

結果、やはり眠い。

うーん...体質なんでしょうか?
どうもマカを飲むと体が眠りモードに入るようです。
しかしWikipediaで調べてみたところではそう言う症例の話は出ていない。

やはり私だけなのかもしれない。

でも良く眠れるし、寝起きがとても良い。
なので症状が違えど、体の回復力は上がってるみたいだから気にしなくて良いのかな?

とりあえずまた別のものを試して見ることにしました。
今度はオリヒロさんから出ている
http://maca.supples.jp/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%AD%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/%E7%94%B7%E3%81%A8%E5%A5%B3%E3%81%AE%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%80%80%E3%81%A8%E3%81%A9%E3%82%81%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%82%AB%E5%B0%86%E8%BB%8D/index.html

しかし精力剤系ってどうしてこう面白い売り文句が多いんでしょうね。
箱に「男と女の桶狭間」って書いてあるけど、勢いは伝わってくるんだけど意味がわからない。
ちなみに私はこういう変な表現が大好きです。

今度は寝る前に飲んでみたところ、グッスリ。
やはりマカは私にとって安眠促進剤という感じなんでしょうか。

最後にこれを購入してきました。
メーカーはよくわからないし、まだ試していませんが名前が良いよな...
http://www.idrugstore.com/product/275987

イクゼヨby龍馬

やはり意味がわからないけど勢いだけがグイグイ伝わってくる。
龍馬って...坂本龍馬なのかな?

目が覚めたら顔がタケダテツヤさんみたいになってたらどうしよう...

2013年5月28日火曜日

ウィーンへ行って食べたものはみんな妙に固かった。

パンもそう、肉もそう、ケーキもそう。
だけど不思議だったのが噛んでても飽きない。
私にはこれが凄く不思議だった。

というのも日本食。
主に米に関して言うと、噛んでいると気持ち悪くなってしまうからだ。

もしかしたら本当の美味しさに触れてないからかもしれないけど、私はどうも苦手。
なので、どうしても少なく噛んで直ぐに飲み込もうとしてしまう。

主食で比べるとしたらパンになるのだろうか?
ではパンはどうだったかというと、噛んでても別に問題はなかった。

ホントに小さなことだけど、私にはこれが凄く不思議に感じた。

米が苦手な理由はある程度わかっている。
私は「おかゆ」が苦手なのだよ...

小さなころは病院生活が多く、よく病院食を食べていた。

当時の病院食の主力と言えば重湯やお粥などの「溶けた米製品」だ。
それらとあまりに多く接していたため、食べると具合が悪く感じられるようになってしまった。

この減少が口の中で起きているのだろう。
だから良く噛むことで米が徐々にお粥状になっていくのが耐えられない...

主食ということを考えると随分と厄介なパブロフの犬だ。

そう言えばパンと米とを比較したときに主食としても大きな違いがある。
前者は練り物を加工したもので、後者はそのままを加工したもの。

これは鰯で言うとツミレと刺身くらい別の物なのだと思う。

だから咀嚼についても理屈に若干の違いが出てくる。

パンは小麦を一度粉にしている。
ようは口の中で行う咀嚼の「磨り潰す」作業を予め行っているのかもしれない。
だから実際には噛み砕くというより唾液と混ぜ合わせる作業になる。

逆に米の咀嚼は口の中での粉砕作業。
磨り潰しながら唾液と混ぜ合わせるという2つの工程を同時に行っている。

これを踏まえると「米を炊く」というのはこの作業の効率化から始まったのかもしれない。
味や栄養という側面からも考えられるけれど、まずは柔らかく、摂取しやすくすることが必須になる。

またこの理屈とナイフやフォーク、箸を使って魚や肉を解すのも同じかもしれない。

西洋食と和食で大きく違うのはその破壊力だろうか。
ナイフやフォークであれば両手で食材を分解することが出来るためある程度固くても成立してしまう。

箸の場合、片手のみを使うためナイフやフォークほど力がかけられない。
その上咀嚼における仕事量が多いため、回数を減らす必要があったのかもしれない。
そのため、食品を柔らかくするようになったのだろうか。

また調理によって味付けが濃く、ハッキリしたものになったため、長時間の咀嚼に適さなくなったように感じる。
西洋食で言えばハンバーガーやサンドイッチなど、ファーストフードに当たる食事にはこの傾向が強い。

なので忙しいのも理由にあるけれど、日本人の食事時間が短くなるのは必然的だったのかもしれない。

逆に西洋食は行動を分担して、より咀嚼しやすくするため固さが残った。
咀嚼を長く行うために味を薄くした結果、素材の個性が比較的バラバラに存在している。

それを基本にしたため、交易が進んだ今でこそ美味しい料理が食べられる。
しかし、もしかすると香辛料などが手に入りやすくなるまでは大変だったかもしれない。

なるほど、だったらそれが金と同じ価値があったことも頷ける。

もしかすると「美味いものを食わせろ」という理由で世界中を蹂躙していたのかもしれない。
被害者の視点から見れば非常に迷惑な話だが、加害者もまた必死だったのだろう。

という話を朝食のときに考え、1人で納得をしていた。

ご飯をゆっくり食べられたからこそ、感じることが出来た話なのだろうか。
詳しくはわからないが、どちらにせよ、食事というのは文化・文明の結晶とも言える。

ゆっくりと自然に行いたいものだ。

原始欲と発電

2011年3月11日14時46分18秒、東日本大震災が発生。
日本は揺れた。

それからしばらくして福島第一原発の事故が確認された。
もしかするとそれは地震や津波よりも「大きな揺れ」だったのかもしれない。
安全という神話が根底から崩壊するほどに。

あれから2年経った2013年の現在。
日本で動いてる原発はほんの一握りとなり、多くの施設は停止している。

多くの人が一夜にして「原子力とは危険である」という認識に変化していった。
現在は原子力を巡って幾つかの派閥が別れている。

・それでも原子力発電所は必要だという推進派。

・危険は理解できるが現時点では必要であるという容認派。

・危険だから停止すべきであるという否定派。

私の意見は容認派に含まれると思う。
というのも正直言った話、代わりが見つからないのだ。

よく話題に出るソーラーや風力などはどうか?

所謂「再生可能エネルギー」を推す動きもあるけど、それができるなら最初からやっている。
それに海外ではどうかわからないが、少なくとも日本では天候に左右されるため出力が安定しない。
なのでそれらはあくまで電源の補助と考えるのが妥当だと思う。

現在の主力である火力は?

エネルギーコストがかかるのと環境への影響が大きい点は忘れてはいけない。
そもそも原子力が(名目的にも)推奨されたのは外部環境への影響が少ないからだったと思う。

原子力も昔は「魔法の技術」だったのだ。

オール電化の考えも原子力の安定供給があって初めて成り立つ。
火力はピークに合わせて調節をするが、原子力は稼動し始めれば一定の出力を保てると聞いたことがある。
そのため消費の少ない夜間はただ電気を作って捨ててるだけの状態になる。

それを活用したのがオール電化...という話らしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%9B%BB%E5%8C%96%E4%BD%8F%E5%AE%85

確かに昼間使うエネルギーを夜間に安く賄えれば消費者も得だ。
電気会社としても収益ゼロだったものが一定の価格で販売できるから利がある。

珍しくどちらにも非がないWin-Winの関係という状態。
ただそれを推進した結果が現状と考えると、なんだか複雑になってしまう。

実際原子力の安定供給により一層の工業化の推進、発展が進んだことは間違いない。
また電気自動車や使われてるバッテリーなどの新規分野の開発への影響も大きいと思う。

だから以前から危険性自体は指摘されていたが、時代もその発達を望んでいたと考えるのが妥当だろう。

現在は急にブレーキがかかってしまった格好になっている。
特に極端な否定派は「原子力のない時代に戻りたい」という意見があるようだ。
酷い話だと電気エネルギー自体を否定する考え方になる。

原始欲、とでも言えば良いだろうか?

それ自体は理解できるから否定しない。
実際私も先日やった土器作りで「原始の生活」に興味を持ったからね。
ただ実際の問題として考えるとそれを推奨するのは難しいと思う。

もしそれを進めるなら少しずつ、人に不要なものを取り外していく必要がある。
それにはシンプルに生きれるように、生活とは何か?という概念から考えていかなくてはいけない。

よくミツバチが居なければ人類は4年もたないという話を聞く。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E7%BE%A4%E5%B4%A9%E5%A3%8A%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4

電気も彼らと同じで、存在をゼロにしてしまえばそれを根底とした全てが崩れてしまう。
だからあまり極端な方向に走ってしまうのは良くないのだけど、それを行わせてしまう恐怖感というのがあるのも理解できる。

遥か先の遠い目で見れば歴史の転換点に居ることは間違いないと思う。
だからこそ焦らず、騒ぎすぎず、冷静な目で向き合う必要がある。

原子力はもう「魔法の技術」ではないのだから。

2013年5月27日月曜日

刺身

スーパーで刺身を見ながら考える。
この刺身は養殖か?それとも天然か?

同じ魚だけど、二つの違い、差ってものすごいと思う。

前者は工業化されて生産されたもの。
豚や牛などの家畜、雪国まいたけやホクトの農産品と同じと考えるとわかりやすいかもしれない。

ようは人間によって意図して作られたものだ。
しかしこれを工場での生産品と置き換えるとどうだろう。
電池やテレビと同じように加工された刺身か...

なんかちょっと食べたくなくなるような気がするね。

後者は技術的には近代化されているものの狩猟と似てる。
人間が太古の昔からやっていることで、はじめ人間ギャートルズでいうマンモス狩りと同じかもしれない。
http://www.gyatoruzu.net/(作者のサイト)

こうして考えると方や先進化した工業。
方や古代からの伝統と属するジャンルや系譜が同じものじゃないってわかる。

だからもし同じ種族の魚だとしても、生まれた基準から環境まで全てが違うんだね。

じゃぁもし逆に漁業の家畜化が完了していて、狩猟が今の漁業のようにハイテク化したらどうなってたか?
陸上兵器の王様である戦車は野生の牛を狩るために、最新のミサイル防衛システムは鴨を撃ち落すために使われてたかもしれない。

まずありえない話だけど、そうやって考えてみるとちょっと面白いな。

貧乏人の税金

昨日、3,000円ほど納税してきました。
何かと言うと木村拓哉さんがやってる「1億円がたくさん当たる」CMでお馴染みのドリームジャンボ。
http://dream2013.takarakuji-official.jp/jumbo.html

そう、宝くじですね。

聞いた話によると宝くじは「貧乏人の税金」らしいです。
この例えを知ったときに腹立つ!...わけではなくて、むしろ良く出来てるなと感心しました。
だって、まさに的を射た表現ですよ。

例えば1億円が欲しい。

ある程度誰でもそう思うだろうけど、一定以上の金持ち。
例えばビルゲイツ並の人からすれば別に無理しなくても稼げる額だから無理してでも欲しいとは思わない。
逆に私のような貧民層からすると喉から手が出るほど欲しい。

だから小額のリスクでビッグチャンスが狙える宝くじというのは非常に魅力的。
しかし3,000円を消費税と換算すると、5%の内税だから60,000円消費したこととイコールになる。

でも手元には商品は残らないし、あっても末等の300円の引換券だけ。
違う表現に変えれば3,000円で300円のチケットを購入しているとも言えるかもしれない。

そりゃ現実的な金持ちからすれば魅力ないよね。

しかし、それでも私は欲しいのだ!
それだけあれば、ある程度やりたいことが出来る...はず?だから。

人は夢を見る生き物です。

2013年5月26日日曜日

ARTORO参加記録 第一回目 宿題編その1

ARTOROの第一回で宿題になった米作り。
http://toro-museumshop.jp/artoro

と言ってもそれほど厳密じゃなく、どうやったら発芽するの?というのを実験する宿題だ。
なので課題と言うより、夏休みの自由研究に近いかもしれない。

米は赤米、黒米、もち米とうるち米の中からの選択だった。
名前が気に入ったので私は関取という名前のうるち米にすることにした。
だってなんか強そうじゃん?

この米は100年ほど前は普通に食べられていたらしい。
今でこそコシヒカリが大正義になって、日本全国で作られているがその前の世代は関取だったとの話。

当時の寿司屋では関取が良く握られていたそうだ。
それが今ではこういう「宿題」でしか接点がないような米になっているのが不思議だね。

芸能界で言うとAKBに対するモーニング娘。
御三家と新御三家、タノキントリオみたいにブームで塗り替えられたのかな?

そう言えば今やコシヒカリが君臨している米業界だけど、昔はササニシキとの熾烈な争いがあった覚えがある。
ただ面白いもので、炊飯ジャーで炊いたときにコシヒカリの方が美味しかったから、一気に勝敗がついたという話を聞いたことがある。
どちらかというと芸能界と言うよりビデオテープのベータとVHSの関係みたいだね。

ちなみに個人的にアキタコマチが結構好きで、よく食べていた。
どうも私は昔からちょっと横道が好きな天邪鬼だったようだ。



ところで今回の課題を聞いたときに一つだけルールを決めたことがある。
それは「最初の数粒は一切調べず、思いつきでやってみる」ことに。

google先生がいるから調べればそれなりのものが出てくるけど、古代の時代にそんなのはない。
恐らくと言うか、きっとと言うか、間違いなく手探りで彼らはやっていたはず。

逆を言うと「手探りでなんとか出来なければ普及しないだろう」とも考えられる。
だって育てるのが難しくて一苦労掛かるんです、っていうものが全国に広まるだろうか?

それにただでさえ日本は天候変化も非常に多いわけで、発芽後に自然と難易度は上がってくる。
関取って名前も「倒れない稲」として授かった名前なら根がそれなりに強いだろうし、思いを込められるだけのことはあるはず。

じゃぁちょっと凝らないで、いつものように横道からスタートしてみようかな、というのが今回の趣旨だ。
農家の人からすると「バカにするな!」と言われてしまいそうなセットではあるのだけど。

ちなみに左側の赤いのが日清のカップヌードル、トムヤムクン味。
http://www.cupnoodle.jp/(サイトには無かった)

右側の青いのが花王のヘルシアウォーター。

カップヌードルのほうは間口が広く、乾燥しやすい。
パッケージも紙っぽいもので薄いため、外気温の影響を受けやすい「熱しやすく冷めやすい」土壌。
どちらかと言うと山間部や北日本に近い状態かもしれない。

逆にヘルシアは空気との触れ合いが少ないため、水は少なくて良い。
ペットボトルは比較的分厚いから日中の熱を溜め込みやすい、温暖湿潤な土壌になる。
これは南日本の海側、米があまり得意でない地方に近い状態かもしれない。

...やる気なさそうで意外と考えてるでしょ?

ということでまずは1週間、お試ししてみようと思う。
どれくらいで発芽するかというのも調べてないくらいなので、正直ドキドキだ。
けど面白い結果になると良いな!と、淡い期待してスタートしてみよう。

お楽しみは、これからだ!

パンツの有り難味

年末だったかな?
テレビでビートたけしさんがこんなことを言っていた。

なんでパンツを有難がるのか?
大事なのはその中身のほうだろう!

嗚呼、確かに。

...と納得できるのだけど、同時に「何故パンツを有難がるのか?」という疑問が生まれた。
考えてみると凄く不思議な価値観だ。

女性が下着を身に着けるようになったのは、昭和初期。
東京にあった白木屋デパートの大火災が切欠と聞いている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9C%A8%E5%B1%8B_(%E3%83%87%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88)

火災が起きたときにハシゴ車で救助する時、当時の女性が下着を付けていないことから恥ずかしがり、救助が遅れた。
それがニュースになり、下着(パンツ)を身に付けるようになった...というなんともゴシップ風の話だ。
もちろん事実無根という話もあるようなので「これが理由」と断定できない。

でも今回は、もしそのエピソードが本当なら?という仮定で話を進めてみよう。

下着のパンツは男女問わず性器を隠すものだ。
だからたけしさんのいう大切な中身というのはその性器ということになる。

白木屋の一件では中身の露出が問題になったからパンツで保護されることが推奨された。
逆に考えると「パンツは見られても良い様に広まった」ということでもある。

なのでパンツが見えて恥ずかしいと感じるのは本来、とても不思議な感覚なんじゃないだろうか?

そう言えば欧米人は確か下着を有難がる文化はないと聞いたことがある。
実際にどうなのかを良く知らないものの、確かに下着ドロボー的な話を聞いたことがない。
ググって見た限りでは、確かに日本的な犯行らしい。

うーん...何故だろう。
だってそこには「中身」がないんだよ?

と考えたところで、ふと、ある出来事が思い浮かんだ。
それは昔、母が良くお歳暮とかで貰ったものを綺麗に、大切に開けているシーン。
不思議だったので理由を聞いてみると、こういう答えが返ってきた。

包み紙も後で使えるし、大切なのよ。

あぁ...もしかしたらこれかもしれない。
外国のドラマとか映画ではプレゼントの袋はビリビリ破いていた。
日本でそれを撮るとすると、余程切羽詰ったシーンになるんじゃないだろうか。

だとすれば日本人は包み紙を大切にする。
もっと強い言い方をすると中身ではない、そこに価値を見出す人種ということになる。
当然、中身のないパンツという包み紙に対しても興味を持つだろう。

なるほど、パンツを有難がるのは高級な包み紙を有難がるメンタリティと同じだったのか。
そう思ったとき、自分の中で凄く腑に落ちた気がする。

だからもし街中で目が自然と追ってしまっても、それは文化的に間違っていないのだ。
むしろしっかりと教育をされていると考えても良い訳で、日本人的には胸を張って誇るべきことかもしれない。

ただ私はやっぱり中身の方が良いなと思うけど。

2013年5月25日土曜日

トニックシャンプーの思い出

小学生のころ、家が凄く暑かった。

某県、某市、某所の住宅はコンクリートの2階建て。
庭はない代わりに凄く大きなベランダがあり、そこではキャッチボールが出来たくらい。
それからバーベキューやら花火やら色んな遊びをやっていた。

しかし、その自由さと引き換えるような照り返しの強さ。
確かその「コンクリートの塊」は西側にあったため、夜も遅くまでホッカホカだった覚えがある。

時は夏休み。

夏休みと言えば部活や宿題もあったが、それらはいつも通りといえばいつも通り。
いつもの学校と違うところを挙げるならやはり家のお手伝いだろう。

ただ闇雲にさあ手伝うか!と言っても暑さでダレてしまう。
なので思いついたのが実益を兼ねることだ。
手伝いつつ暑さをどうにかするには...

そう、風呂掃除だ。

風呂を掃除すれば不可抗力で水が浴びれる。

当時はガスの湯沸しでシャワーというものがない。
だから捻れば結構冷たい真水がでてくるため、風呂掃除の仕上げはそれでやることになる。
スポンジで擦ったアワアワを水でビシャーっと蹴散らす。

湯船が狭かったため、内側で打てば当然自分の体に跳ね返りが来る。
それはもうビッシャビッシャになるくらい。

ならばやるしかない!と、毎年のように風呂掃除をしていました。

しかしそれでも嫌になるくらいの暑さがたまにあるんです。
そう言うときは打ち水をすると良いと聞いたためやったこともあるけど、逆効果。
夕日で熱された水蒸気が全て家の中に入ってくる。

だから暑くて暑くてたまらない。
きっと肉まんはこんな気持ちなんでしょう。

もう頭がおかしくなる!

しかしそこで思いついた私少年。
たまたまテレビを見ていたらヘアトニックシャンプーのCMが流れてたのですよ。

そう言えば風呂場に同じのがあったような...?

確認したところ、在庫アリ。
じゃぁこれと風呂掃除と組み合わせれば良いんじゃないか!
半ば興奮気味に、キラキラした瞳でヘアトニックシャンプーを見つめる少年。

しかし先述の通り、うちにはシャワーがない。
だから軽く、さらっと汗を流すもしくはシャンプーをする程度は不可能となる。

お湯を手に入れるには風呂を沸かすしかない。
だけどお湯を入れると当然暑い。
暑いから却下だ!

しかもどうせ風呂掃除で水浸しになるわけだから、ここは一つ容赦なくやってしまったらどうだろう。

私少年は昔から思いついたら即実行するタイプ。
で、当然やってから後悔するタイプ。

その時やったのは全裸で風呂を掃除し、水浴びをしつつヘアトニックシャンプーでした。
しかも止めとけば良いのにシャンプーで体まで洗っちゃって。

当時のヘアトニックシャンプーって基本大人用なんですよね。
子供の柔肌には刺激が強すぎるし、何より頭を洗う用で体を洗って良いもんじゃない。
それに多分頭皮って意外と「防御力」が高いので「涼しい」と感じるんでしょう。

結果、彼の体が得たものは、涼しさじゃなくて激痛でした。

しかも考えてみたらお尻とか大事なアソコとかって粘膜なんですよ。
もっと強く言えば内臓です、内臓。

だからヘアトニックシャンプーが「目に入った」のと同じレベルで痛い。
しかも流すのにお湯を用意しておけばまだ良いものの、出てくるのは結構冷たい真水のみ。
暑い、暑い、暑いから痛い、寒い、冷たいの三重苦へと一気に移行しました。

当然、風邪を引きます。

今考えれば「アホだなぁ」と思いますが、多分当時は同じことやった人がいたんでしょうね。
その後、数年たってからシーブリーズからボディーソープが売りに出されました。
http://www.seabreezeweb.com/ (残念ながらサイトが見難い)

夏の暑い日。
家に帰ってサクセスシャンプーを使う度にあの日の私少年の奇行を思い出します。
http://www.kao.co.jp/success/

しかし...今とあまり変わってないな。

2013年5月24日金曜日

野球と私。

小さなころ、物心ついたころにはタテジマのユニフォームを着てはしゃいでいた。

そしてバースに掛布に岡田のバックスクリーン3連発!
多分、私の持ってる野球の記憶で一番古いのが「阪神タイガース日本一」だと思う。

そのころは父から「野球はタイガース」と教育されていた。
ただ実際のところはというと見てるのはほぼ巨人戦というか、阪神vs巨人ばかり。
理由は言うまでもなく「それしかやっていなかったから」である。

当時はBSやスカパーはもちろん、パソコンだって見たことないような時代。
ウルトラマンに出てくる研究者だって凄くデカイ謎のテープレコーダーみたいのを使っていた。

だから必然的に情報はテレビで流れてくるものか、新聞だけになる。

なのでバックスクリーン3連発は巨人戦だからインパクトに残ったのだろう。
おかげでうっかり「阪神タイガースは最強の名門」と思い込んでしまった時期がある。

確かに西武ライオンズを倒しての日本一も興奮した。
それ以降は優勝の「ゆ」の字も出てこなくなるが、西武を倒せたのは阪神だけ!という幻想が生き残ってしまった。

今考えると、勝てないのは伝統なのだな...伝統だから幻想を求めたのだろうな...

しばらくしてから他のファンになってみたいという理由で「期限付き移籍」を行った。
ファンとしてのFA宣言みたいなものかもしれない。

無論のこと、父はガッカリしていたと思う。

過去にファンになったのは広島→中日→横浜→ヤクルト。
なんでセリーグだけ、しかも巨人以外なの?と疑問に思われる人もいるかもしれない。

基本的にはただ...なんとなく嫌い?という漠然とした理由だったりする。

細かいことを言うと、いくつか出てくるんだけどね。

例えばアナウンサーが巨人応援ばっかりしてるから嫌とか。
ドラゴンボールや聖闘士星矢(アニメ)が巨人戦で潰れたから嫌いとか。
父の「巨人は敵だ」という教育が実を結んだとか。

桑田さんとか好きな選手は個々で居たんだけど、どうもファンという視線にはならなかった。

ちなみにパリーグはイチローが出てくるまで珍プレー好プレーでしか知らなかったからファンになりようがないのも仕方ないだろう。
でもその割りにロッテ時代の落合さんを知ってたんだから不思議だよな...

そうしたノマドを経て、現在は基本「ファンなし」で落ち着いている。
ただ父の影響かスカパーの影響か教育の賜物かはわからないけど、一番近いのは阪神タイガースかな。

今年は調子が良さそうだから、なんとか勝っていただきたいものだね!

2013年5月23日木曜日

飯とパン

H.I.S.で予約したウィーンの旅から早いもので2週間が経った。
http://www.his-j.com/

準備に半年じっくりかけたのに、終わってみれば一瞬。
全ては遠い日のように過ぎ去った...わけがなく。
私たち夫婦には、まるでアルマゲドンでも起きたかのようなインパクトが刻まれています。

いやぁ、凄かった!

ところで今回使用したのがオーストリア航空。

http://www.austrian.com/?cc=jp

サービスはもちろんのこと、何より内装がお洒落!
道中飛行機が揺れたのとエンジン音がうるさかったのを差し引いても満足できました。
機内食も美味しかったしね。

ところでこの機内食で少し驚いたことがあった。

往きの便ではよく聞く「ビーフorチキン?」という質問が。
私はチキン、奥さん(以降相方)はビーフを選んだのだけど、彼女のほうは牛丼だったのだ。
オーストリア料理を期待していたためか、ちょっとショックだったらしい。

それでも美味しかったらしい(私は牛が苦手なので食べてない)ので悪い話じゃない。
しかしそこで心に残ることがあったのだ。

それは...牛丼にもパンがつくこと。

あまり外国へ行くことがないので知らないのだけど、メイン食の後にパンを配っていた。
もちろんビーフとチキンの区別なく、食うか?いるか?っていう感じで配膳している。

日本人的に考えると「牛丼に何故パンが?」という感じ。
だって考えて見て欲しい。

例えば吉野家でパンが売ってたらおかしいでしょ?

飛行機の中だって例外じゃない。
感覚的に「牛丼に何故パンが!?」となるのも仕方ないだろう。

でももう1つの考えがある。

もし外食してリゾットを頼んでパンが出てきたらどうか。
恐らく「あぁ、パンがつくのね?」と受け入れてしまうような気がする。

じゃぁハンバーグならどうか?ラーメンだと?焼き鯖だと?
...と考えていくと、私はどうも米が主食かどうかを米の形態やおかずで判断してるようだ。
なので今回はたまたま牛丼だったからこの違和感を感じたということになる。

主食の場合だとパンがつくと変に感じるし、そうじゃなければ受け入れられる。

この感覚はパンが主食の国の人だとどうなのだろうね?
パスタだと...というか、パスタとパンが出てきたらどちらが主食になるんだろ。

多くの疑問が交差する中、やはり自分は日本人だなとつくづく感じたフライトだった。

歴史の面白味

先日のARTOROで「土いじり」を行った。
http://toro-museumshop.jp/artoro

土いじりと言うと、一般的には家庭菜園とかガーデニングかな?
しかしこれらは求める結果、出力されたものが野菜や植物や景観など別のもの。
今回やったのは土器作り?だからそれすらも土。

最初から最後まで全部、土の土いじり。

だからそれ自体「面白い」のは間違いないのだけど、それ以上に面白かったのが場所。
まさか登呂遺跡の中でこういうことをするとは夢にも思っていなかった。

だって昔は教科書に載っていたところ。

そんなところで土を穿り返したら普通なら怒られる。
だけど公然に胸を張ってそれが出来るんだから、それはとてつもなく凄いことだ。

文化や文明には必ず過去、歴史がある。
ある意味では自分たちが通ってきた道筋なんだけど、未来に居る自分たちからすると新鮮な発見。
だからもしかすると凄くフィクション性がある目線で接して良いのかもしれない。

だって誰一人だって真実を知らないわけだ!(暴言)

文献や状況、残された色々なものから言葉を拾い上げて、自分なりの物語を作ってみれば良い。
その中で「もしかしたらこうだったかも?」なんて、トンデモ理論だって生まれてくる。

確かフタバスズキリュウで日本の学説を覆したのは高校生だったはず。
だから一見「ねーよ!」と思うことでも、何かの切欠で後々何かがヒックリ返るかもしれない。

もちろんそこまでを求めるなら立証できればっていう条件はあるけど、考えることはきっと自由だ。
なので参加させて貰ってる以上、感想だけじゃなくて自分の考えを書いていかねば!って思う。

例えば変な話だけど、もしあの場でポンペイの街みたいになったとしよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%82%A4

何百年か後に、次の世界の人間によって発見されるかもしれない。
そのときは私たちは土器を作っている姿で、みんな葉っぱのロクロを使っている。

彼らはきっと思うだろう。

恐らく古代人達は何千年もこうやって土器作りを継承していたのだろうって。
ある程度の文明が出来上がった後でも、こうして手作りしていたに違いないって。
だから彼らが登呂遺跡を復活させたとき、私たちの人形が体験コーナーの一角に並ぶのだ!

ホワイトボードで熱く説明する本原さん。
それを聞きながら捏ね続ける私たち、そしてそれを見守るARTOROの実行委員さん達。
もしかしたら取材しにきた新聞記者さんだって一緒かもしれない。

未来はいろんな意味で無限だ。

だから同じように、過去のことだっていろんな解釈をしていい。
そこに歴史の面白味っていうのがあるんじゃないかな、と私はコッソリ思っている。

2013年5月22日水曜日

kunst

芸術は爆発だ!

と、故 岡本太郎さんは言ってました。
私はそれをテレビで聞いてて「変なオッサンだなぁ」と思っていました。
まさかあんな凄い人だったとは露知らず!

でもまぁ、多分「変なオッサン」であったこと自体は事実でしょうね。

ところでゲイジュツとは何でしょうね。
昔から疑問に思ってることなんだけど、コレと言った答えがない。

いや、答えがないというか納得が行かない、腑に落ちないという方が正解か。

またARTと言うと余計にわからなくなる。

私は自慢じゃないが絵心も創作意欲もなんもない人。
内側がノープランで生き抜いてきてるようなタイプだからわかりっこないのかもしれない。
ただ先日のウィーン旅行で触れた”kunst”というものについては理解が出来たような気がする。

クンスト【(ドイツ)Kunst
---------------------------------------------------------------------
1 技巧。
2 芸術。美術。

ぎ‐こう〔‐カウ〕【技巧】
---------------------------------------------------------------------
技術上の工夫。特に、芸術の制作や表現における技術的な工夫。テクニック。
                                         <goo辞典参照>


普段目にしてるのは出力された先のもの。
基本的にはその結果を指してゲイジュツと言っているのだと思う。

内側から溢れるパッション的なものがない私にはそれくらいしか接点がない。
けど、やってる方としてはそれに向き合った過程、磨いた技術、思いついた発想など、多くを含めて見れるのかな?って。
多分...フットボールのファンとプレイヤーの目線が違うような感じだろうか。

だからそこに触れないとわからないのは仕方ないのかもしれない。

触れるって言っても方法はある。
見ること、調べること、そして実際に作ってみること。

だからウィーンに行ってその機会を作らなかった私にはわかりようがないよなぁ、って思いました。
うーん、頭と口先だけで生きてたらダメね(反省)。

でもこれまで「凄い!」って思ったこと。
それから「なんで?」って感じたことには理由があるのもわかった。

だからきっと、それを追えばいつか私にもわかるときが来るのかもしれない。
その日を信じて何かを追えれば良いなーと、なんとなく思う。

2013年5月21日火曜日

馬に乗る、ということ

昔から、世界的に乗馬っていうのがある。
けど、それを見ていていつも疑問を感じていました。

人は何故馬に乗るのか?

いや、理由は色々とあると思うんですよ。
例えば移動距離が広がったからとか共生(家畜化)が成功したからとか。

でもサルは自分の足で移動するし、鳥も翼を携えたわけですよ。
じゃぁ何故「人だけ」が別の生き物に手段を選んだんだろ?
これはやっぱり、非常に不思議な問題。

ただもし人が馬ほど速ければ、人は馬に乗っていないってことは言えると思う。

何故かと言えば人間って基本的に怠け者なんですよ。
文明や文化ってその結晶で、ご飯に困りたくなかったり面倒を無くそうとして変化させてきた。
だから人にとって楽な生活があれば、水が低きに向かうようにスーっと流れていく。

多分、馬に乗るようになったのだって同じ理由。
馬のほうが速いし、走るし、何より自分が疲れなくて済む。
疲れなくて済むってことは到着してから別のことが出来るということでもある。

もちろん、その結果抱えてしまった苦労とかもいっぱいあるけどね。
それでも人は本能で、前向きに怠ける特徴を持ってると思う。

でも考えてみると人がそうだから馬(車)にも乗れるし、鳥(飛行機)にも乗れるわけで。
もし勤勉に、変化した環境に順応しようと自分から動いていったらそうはならなかったはず。

だから私は面倒くさがりで良いんだ!(結論)

ということで座右の銘が「人が馬ほど速ければ、人は馬に乗らない」になったわけです。
めでたしめでたし。

2013年5月20日月曜日

ワイン

先日はオーストリアはウィーンへと新婚旅行へ行ってきた。

何故ウィーンか?というと色々とあるのだけど、それはまたいつか。
...とか言って忘れる気まぐれ屋タイプな私。

今回は帰国後の話。

あちらで飲み食いしたものが余程舌にあったのか、現在食べたくてしょうがない!飲みたくてしょうがない!って状態。

中でも一番「中毒症状」が出ているのが白ワインですね。
いやぁ...ワインがあんな美味い飲み物だって初めて知ったよ(失礼)。

人生を振り返るとワインにはまる時期ってのも間違いなくあった。
とは言え当時は「それくらいしか飲めなかった」というのもあるし、実際日本酒やウィスキーが飲めるようになってからは離れましたしね。
それからしばらくは目に入らなかったんだけど、今は「飲みてぇ...飲みてぇ...」と彷徨えるゾンビのようになってしまった。

どうしてだろうか。

実はワインを美味しいと感じ始めたのはウィーンへ行く前のこと。
本原さんのお誘いで飲み会に参加させてもらったときです。

これ美味しいのよ!

と、ワインの瓶が出てくる。
そのときは正直「えー、ワイン?」という感じだったんですが、飲んでみると...あれ?美味い。
出してくれたのが美味しかったのか、舌が成長したのか、一週回ったのかは定かじゃないけど、すんなり受け入れられた。

ちなみにそのとき同時に乗り越えたのが茹で落花生だったりします。
こちらは「食わず苦手」だったのですが(そもそもピーナッツが苦手なので)。

そのときはもしかして酔ってたからかな?
雰囲気が良かったのかな?とか考えてたんですけど、あちらで飲んでみてわかりました。

ワインは美味いっすね!!(今更かよ)

ちなみに赤ワインは未だに少し苦手です。
これもそのうち克服できるんじゃないかと思ってるけど、まぁ自然の流れに任せましょう。
なので、最近はジャスコやカルディ等で眺める日が続いています。

...眺めてるだけだけど。
毎晩飲んだら破産しちゃいますからね。

ARTORO参加記録 第一回目土器作り その3

http://toro-museumshop.jp/artoro

粘土を作ってみる。

今回は特別な粘土を使わせてもらえた。
話によると、一応どこの土でも最終的には粘土状になるらしい。

小学生みたいな反応だが「へぇ~」と思った。

というか昨日(2013年5月19日)は完全に小学生に戻っていた。
粘土をこねるのもそのとき以来ぶりだし、土粘土というのは触ったことすらない。
しかも粘土を作るなんてことはやったこともなければ、これまでの人生で考えたことすらない。

触れるすべてが新発見!というのは先日のウィーン旅行に引き続いて。
うーむ、非常に希少で貴重な体験が続いているな。

で、粘土を作ってみる。

灰色の...灰?みたいな土に水を混ぜてこねる。
粘土になったものが指にまとわりつくのが気持ちよくて気持ち悪い、不思議な状態。
本原さんは「パン作りと同じ」と言っていたが、なるほど結果的に違えど他のものと過程は同じなのね。

こねる、水を足す、こねる、こねる、水を足す...と延々と続ける。

どこまでやって良いのかわからない。
...というか、どこまでもやっていけるような気がする。

もちろん「土と向き合う」というところまでは行ってないものの、この無限さは心に残った。
どこまでやって良いのかわからないからこそ、どこまでもやっていける。

陶芸家に限らず、物を作るの楽しみってこういうところかもしれない。

自分が納得するまで何度でもチャレンジが出来る。
触れていると少しずつ欲が出て、一歩一歩階段を上がっていく。
奥底からどんどん何か、変な汁というか波がドバドバ...なるほど、これは面白い。

器を作るときもそうだったけど、粘土を作るときに「止め」と言われてもみんな真面目に不真面目。
私を含めて手を止める人がほとんど居なかった。

終わってみれば閉館時間。
ということで簡単に後片付けをして、宿題を戴いてこの日は終わった。

なんだろう、第一回にして「この企画は面白い」と感じる。
同時にもしかすると昔の人達のほうが人生面白かっただろうな?とも思う。
色々と不安定で不便で、今から考えると凄く面倒くさいだろうけど、発見が凄く多い。

発見が多いってことは工夫が出来るってことでもある。
それは同時に自分が無限の中の一部として生きることかもしれない。

うーん、凄いね。

ARTORO参加記録 第一回目土器作り その2

http://toro-museumshop.jp/artoro

粘土を採取した後は葉っぱを採取する。

理由は本原さんのサイトにある動画を見ていたのでわかっていたのだけど、実際にそれを使うと、それまで考えていた以上に面白かった。
http://motoharareico.com/

天然のロクロは滑る滑る。

まぁそもそもロクロ自体、それほど使ったことはないので比較はできないのだけど。
ただそれにしても「確かにこうやって使ってたのかもな」と感じるほどには凄く使いやすかった。
粘土をコネながら本原さんから1つの疑問が出てきた。

昔は机がないと思うんだけど、どこでやってたんだろうね?

ああ、確かに机がない。
机の代わりになる場所っていうと、やっぱり地面の段差なのかな?

うーむ、非常に不思議である。

そう言えば縄文土器の時代って土にくぼみがあったような覚えがある。
家の中がへこんでいて、そこに挿して使っていたとか...

それじゃそこじゃないかな?というのが今のところの考えだ。

土器に合わせるように穴を掘っていたって最初は思っていた。
でもそれって面倒くさいよな?伝統なんて言葉がない時代にイチイチそんなことするかな?

動物というのは自分の体に適した、自分にとって合理的なことしかしない。
だから一見して彼らにとって面倒くさそうなことはしないし、環境変化に伴う必要性がないと動かないと思う。
人間もかつては動物に近い動物だったと考えると、面倒な路線は全て不正解な気がする。

となると、一回掘った穴にあわせて作るのが一番楽だろう。
もしかするとあれが人類としては最初の型(カタ)だったのかもしれない。

講習でも話題に出ていたのだけど、確かに縄文土器ってメラメラした見た目になっている。
それなら多分火の見える場所に穴があって、燃え上がる火を見て作ってたんじゃないかなという気がしてくる。

もしかして縄文人的にはスケッチだったりして?

でも...うーん、そうなるとどうやって器になっていったのかがわからないな。
くぼみを使うってことはその時点で既に「器」としての機能を理解して求めていたってことになるもんね。
その前を考えないと、どこでどうやってやってたかっていうのは出てこないと思う。

歴史を考えるって面白いけど難しい。
難しいけど面白い。

2013年5月19日日曜日

ARTORO参加記録 第一回目土器作り その1

http://toro-museumshop.jp/artoro
登呂遺跡の水田跡から粘土を採取する作業。

しかしながらこれがまた難しい。
粘土までは10センチほど掘り返す必要があって、土を除去するのに一苦労。
次に到達した粘土を穿り返すのにまた結構な力が要ることがわかった。

現代にはスコップがあって良かった!と思う反面、これがないときはどうやって取ってたのだろう?と小さな疑問。
私たちの近くで取ってた東京から来たという親子さんは鉄製のものが壊れていた。

当時は鉄器がまだないはず。
また青銅器も高価だったような記憶がある。

ってことはやっぱり木の農具を使ってたのか?

でもここで少し疑問がある。
木の農具を作るのって鉄や青銅ほどじゃないけど、結構大変な労力だ。

となると石だろうか?

土を掘り返すだけなら重量がある石は使えると思う。
けど相手が粘土の場合だと、逆に堅くなってしまうような気がする。
仕事の性質から考えると削り取る必要があるだろうから、石でやる性質の仕事なのだろうか。

うーむ。

そんなことを考えながらボーっと考えながら本原さんのオランダ紀行の話を聞いていると一つヒントがあった。
何かと言うと「レンガの土を二つの川が運んで来た」というお話だ。

水田には水路がつき物で、登呂遺跡にも当然それがある。
川がレンガの土を運んでくるのなら水路が運んできてもおかしくはない。
それにもし溜め池みたいなものがあれば底に沈殿するだろう。

当時は清掃があったかどうかわからないが、もしあったとしたら大量にかきだされる。
しかも柔らかい状態で、水で洗われたような綺麗な状態だ。

また当然晴れた日に清掃が行われるだろうからその場で太陽による自然乾燥が行われる。
乾燥した砂の横には溜め池や水路があり、豊富に水が手に入る状態だから、自然と粘土を作れる条件が揃う気がする。
しかも特に道具は必要ないし、柔らかい状態なら木の農機具や石器などでも十分成り立つ仕事だろう。

となると、やっぱり粘土は水路近辺で自然と生まれたものなのかな?と思う。
実際のところどうなのかはわからないが、考えるきっかけにはなりそうだ。