2013年6月17日月曜日

宿題考察編

ARTORO第一回の宿題で出たのが「稲を発芽させてみよう」というものの考察編です。
http://toro-museumshop.jp/artoro

私はヘルシアのペットボトルとカップヌードルのカップに土を入れ、種をまいてみました。
http://geshimashita.blogspot.jp/2013/05/artoro_26.html

しかし手を加えずに基本的に放置しました。

3週間の間、水をやったのも一回(カップヌードルのみ)だけ。
カップヌードルは一度雨で水没したんで、水を少しこぼしました。
後はホントに忘れるくらい放っておきました。

理由は簡単で、植物は条件が揃えば勝手に発芽するから!...です。

結果としては勝手に発芽しました。
しかも結構元気に伸びていったので一安心。

これは考えるのに必要な”良い材料”になりそうだぞ。


実は登呂遺跡の高床式倉庫を見てから凄く疑問を持っていました。
竪穴式住居と同じく弥生時代の象徴とも呼べるものなんですが、何故あのような違いになったのか。

突然ですが、人間は基本「逃げ」の生き物です。
起きた結果から現象を捉え、それを意図的に再現することで数々の理屈を積み上げてきた。
言い方を変えると立ち向かわないことで”焦点を合わせる作業”が出来たのだと思います。

例えば火からは熱いから逃げる。

それでどこまでの範囲が熱いのか。
どこからが物質が変化(燃焼)するのかを把握できたからこそ管理ができるようになりました。
恐らく危険な動物に対しても、変化する天候も、植物においても同じでしょう。

だから高床式倉庫にしても何らかの「逃げ」があったと思うんです。
それがなんなのか、凄く気になっていました。

竪穴式住居と高床式倉庫を比較して見ると面白い違いがあります。

前者は下に掘り下げているのに対し、後者は上へ。
表現に私の理屈を取り入れるなら「高床式は大地から逃げている」となるでしょうか。

一体何故なんでしょうね?

多分、一番のポイントは湿気対策でしょう。
昔は風通しを良くすることで穀物の保存状態を良くしたというのを授業で習いました。

しかし変な話、直ぐに腐って食べられなくなるものなら保存にそんなに固執しないと思うんですよ。
植物だから生えてる時は食べる分だけ採れば良いし、無ければ無いなりに別のものを探す。

そもそも食べるものが全く無ければ、この地方は発展して無いでしょうしね。

あれこれ色々と考えた挙句、出てきたのが「勝手に発芽しちゃうんじゃない?」という仮説でした。
中学で豆か種か忘れたけど水とコットンとシャーレで発芽させる実験があったはず。
確か発芽の条件は水、温度だったような覚えが...

今回の実験の結果、やっぱりある程度は放っておいても芽は出る。
得にヘルシアは特別何もしていないわけだから、やはり湿気程度でもなんとかなりそう。

ということで得られた事象を、勝手に当時を推測しながら並べてみました。

1.どこかで稲の種を貰った。
2.保存が利くと聞いたので土器に入れて家で保存していた。
3.家の湿気と火による熱で発芽した。
4.一口食べてみるも「これじゃ食えない」とどこかに捨てた。
5.しばらくすると大きく育ち、実った。

このうち3.を回避するための高床式倉庫じゃないでしょうか。

保存状態を良くする考えって現代だと「腐らせない」になると思うんです。
でもそれは発芽条件を知っていて、その先の状態や流れが把握できてるからの発想。
当時なら発芽も腐敗も同じ状態の変化なはずなんです。

だから意図的に苗を育てたんじゃなくて、結果的に苗になってしまった。

結果は同じでも考える上で、この視点の違いはかなり大きいんじゃないかなと思います。
方や前向きな積極姿勢、方や後ろ向きな消極姿勢ですからね。

ただ捨てたはずが食えるようになった、少ない量だったのに増えたという衝撃は大きいはず。
よく「稲作が伝わった」って簡単に言うけど、そんなにパッと受け入れられないですよね。

畑でもない、水田でもない、身近などこかで稲の強さを認識する。

そこで初めて稲作を受け入れられる土壌ができるんだと思います。
しばらくして、もっとやりやすくしたい欲求が出てから地盤、農具の問題が生まれてくる。
それをするにはどうするかを考えた先に役割分担が出来る。

栄養状態が良くなれば、自然と勢力に差が現れる。
そして政治、宗教などの組織的なもの、近代化へと繋がっていくのでしょう。

だから文明とは単純な「成長発展」ではなくもっと消極的なものなのかな、とも思うのです。

今回の実験はそういう長年の疑問に向き合うのに凄く重要だったと思います。
同時にもっと早くから挑戦していれば、私は今の私とは違う私だったのかもしれません。

そう考えると...やっぱり消極的過ぎるのも良くないことなのかもしれないですね。

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