やりました、日本初のメダルです!
今朝のニュースではそう叫ばれていました。
比較的新しい競技であるハーフパイプで、15歳という新しい力が銀メダル。
凄いことだと素直に思う反面、オリンピックがなければ私は彼らのことを知らなかったよな、と少し複雑な思いです。
特に最近の冬季五輪は毎回驚きがいっぱいです。
モーグル、エアリアルから始まり、今回のハーフパイプ、スロープスタイルなど、これまで見たことのない競技が矢継ぎ早に目の前に現れました。
特にスロープスタイルには度肝を抜かれました。
モーグル、エアリアルを見たときに「この競技は普通じゃない」と思いましたが、それ以上。
だってフィールドに階段がある、パイプがある、そんなスポーツって他にどれくらいありますか?
例えばサッカーやラグビー、街中を走るマラソンもそうですが、フィールドにそういうものは置いていない。
あるとすれば体育祭でやっていた障害物競走くらいかな?
網をくぐり、平均台に乗り、パンを咥えてゴールする。
そこで辛うじて登場するかどうかっていうところだと思います。
だから正直「こんなスポーツが成立するのか」と、見る前の私の視線は疑問だらけだったと思います。
しかし目の前で起きる奇想天外な、自由な発想の出来事に目を奪われました。
解説の話を聞くと元々「Xゲームhttp://xgames.espn.go.com/」の中の1つの競技のようですね。
なのでこれほど過激で心が震えるのかと納得しました。
ただそれ以上に終わった後の楽しそうな雰囲気にも良いなと思いました。
恐らくですがXゲームという特定のフィールドがある彼らにとって、オリンピックも1つの会場に過ぎないんでしょう。
国の威信も意識にはあるだろうけど、大切なのは自分のプレイを世界に伝えること。
そのスタンスは大きく変わっていないんだと思います。
もしかすると”新しいオリンピック”というのは、もう始まっているのかもしれません。
これを見た後、他の古くからある競技を見ました。
クロスカントリーにジャンプ、ショートトラックやスピードスケートなど。
もちろん白熱して面白いのだけど、日本勢は勝てない。
メダルを取ったハーフパイプや決勝まで残ったスロープスタイルと何が違うんだろ?と考えました。
多分なんですが、全力を出すためのベースが違うんでしょうね。
国の威信をかけたオールドスポーツと、自分のプライドをかけたモダンスポーツ。
前者と違って後者はよりチームで戦っているのだろうなという気がしました。
もちろんXゲームという別の舞台があるかないかというのは大きいのかもしれません。
ただアスリートがテレビで「スポンサーが居ない」「食えない」と言っている前者より、よほどビジネスになっているんでしょう。
それだから若い力が伸び、若い発想が生まれ、経験者はそれに対峙して時代に傷跡を残そうとする。
ある意味では単純で明快な、本当の真剣勝負がそこにあるのかもしれません。
世界的に見て日本人はお金持ちだと思います。
でもそれは他の人達より財布の中に金貨が1枚だけ多く入っているだけなのかもしれません。
だからそれを彼らと共有することが出来ないんでしょう。
日本人は技術が好きな割りに対価を払おうとしない。
これは本当に悪い癖です。
もしこの先、本当に”国の威信”というものを必要とするなら何か考える必要があるような気がします。
そんなことを考えつつ、現在冬季五輪を楽しんでいます。
2014年2月12日水曜日
2014年2月10日月曜日
原発
都知事選が終わったので、原子力発電所の是非について冷静に考えてみる。
原発は言わば”魔法の技術”というべきだろうか。
一度設備を稼動させれば多くのエネルギーが絶えず生まれ続ける仕組みだ。
しかも暴走さえしなければ環境に対する負荷も大きくない。
だから受け入れられた時代は今と違って環境問題が切迫していたと記憶にある。
今のように進んだ燃焼技術も浄化技術もなく、火力発電所から立ち込める煙に苦しんでいた。
私自身は小さくて記憶に無いが、喘息という症状が体には刻まれている。
多分、某国のPM2.5なんかの問題はこれと同じなんだろう。
それを止めるには一見だけでもクリーンな技術に頼る他ない。
原子力が出てきて何が変わったか?というと、一番は多くの人を支えられるようになったことが挙げられる。
”ランプの精”に苦しめられた人々には心地良い空気を与え、強い光は暗い夜道も照らすことができた。
その結果、高出力で安定したエネルギーは東京のような超文明都市を作り上げていくことになる。
また”魔法”は昼夜問わず安定した出力を発しているのも特徴的だ。
工場は24時間稼動できるようになり、コンビニやファミレス、ファーストフードのように夜間のサービスも現れた。
そして物質化したエネルギーは昼夜を問わず流通網を賑やかしている。
もしかすると人に直接関わる部分としてはこの働き方の問題が一番大きいのかもしれない。
さらに電力は余ったエネルギーを電力会社は夜間電力として販売しはじめた。
オール電化などがその最たるもので、文明はより電気エネルギーに依存する方向になっていく結果となる。
またインターネットも普及し、昼でも夜でも地球の裏側の情報までもが簡単に手に取ることが出来るようになった。
このように産業や文明とこの”魔法”は簡単に切り捨てることができない。
しかしそれによる問題も生じていることも確かだ。
例えば時間の区切りが明確でなくなってしまったことから雇用形態に大きな影を落としている。
言い方を変えれば、いつまでも働かされる状態を作り出してしまったということだ。
そのため人は”魔法”により交換が出来る歯車に近づいた。
そして東京のような一極集中型の都市を育ててしまったことは大きな問題だと思う。
現在、東京には約1300万人の人が住んでいると言われている。
オランダが1600万人と近いから比較対象にするが、大凡19分の1の面積でその人口を賄っていることになる。
しかも近隣には千葉(600万人)、埼玉(700万人)、神奈川(900万人)など、準ずる都市がある。
簡単に計算してこの狭い地域に約3500万人、オランダの倍以上の人間が生活しているわけだ。
ということは電気以外にもそれだけの規模を保つための食料、水などが必要となってくる。
もちろん排出する物質も多く、それらを提供、移動し続けるエネルギーもなくてはならないものとなる。
都市化により確かに生活は高効率化したが、恐らく人が与える環境負荷は試算すらし辛い規模になっているはずだ。
ではこれらの前提がある上で原発の是非を考えてみる。
歴史的な流れや技術的な必要性という入り口に関しては間違いなく是と言えると思う。
もし”魔法”現れなければ”ランプの精”により人の住める場所ではなくなってしまっていただろう。
雇用を含めた生活の快適性という点でも入り口は是と言えるかもしれない。
ただその後、それをどう運用していくか?という文化寄りの視点で眺めてみると非という観点も現れる。
刃物というのは使い方を考えなければ自分を傷つける結果になってしまうということかもしれない。
そして最後に環境負荷という部分ではどうだろうか。
文明の発達に寄与した分だけ極端な都市化を進めてしまい、技術の発展以上の負荷を生んでいる。
残念ながらこれは単に福島の原発から発する放射性物質だけの問題ではない。
しかしそう考えると結局は技術を人がどう使うか?という一点の問題のような気がしてくる。
安定したエネルギーを極端にではなく、安全な規模で、安定的に使っていくことが出来れば良かったのだろう。
だがそれには人間や文明の持つ潜在的な意思、本能という部分をコントロールしなくてはならなかった。
言い換えればどこかに理性という質の良いブレーキが欠けていたことが問題とも言えるかもしれない。
今回、超文明都市の脳を決める選挙の争点が原発の問題になったのも1つの流れと見ることもできる。
ただ単純に悪とすることは簡単だが、今ある”魔法”をどう終わらせるかという問題がある。
また魔法の代わりをどうするのか、再び”ランプの精”に頼るのか、別のエネルギーを探すのか。
それとも文明と決別して別の道を選び生きていくのか、考えることは多い。
それらについてもっと長く時間を使い、多くの極端でない論議をしていかなくてはならない。
技術の価値自体に是も非もない、結局はそれを使う「人の意思」なのだ。
原発は言わば”魔法の技術”というべきだろうか。
一度設備を稼動させれば多くのエネルギーが絶えず生まれ続ける仕組みだ。
しかも暴走さえしなければ環境に対する負荷も大きくない。
だから受け入れられた時代は今と違って環境問題が切迫していたと記憶にある。
今のように進んだ燃焼技術も浄化技術もなく、火力発電所から立ち込める煙に苦しんでいた。
私自身は小さくて記憶に無いが、喘息という症状が体には刻まれている。
多分、某国のPM2.5なんかの問題はこれと同じなんだろう。
それを止めるには一見だけでもクリーンな技術に頼る他ない。
原子力が出てきて何が変わったか?というと、一番は多くの人を支えられるようになったことが挙げられる。
”ランプの精”に苦しめられた人々には心地良い空気を与え、強い光は暗い夜道も照らすことができた。
その結果、高出力で安定したエネルギーは東京のような超文明都市を作り上げていくことになる。
また”魔法”は昼夜問わず安定した出力を発しているのも特徴的だ。
工場は24時間稼動できるようになり、コンビニやファミレス、ファーストフードのように夜間のサービスも現れた。
そして物質化したエネルギーは昼夜を問わず流通網を賑やかしている。
もしかすると人に直接関わる部分としてはこの働き方の問題が一番大きいのかもしれない。
さらに電力は余ったエネルギーを電力会社は夜間電力として販売しはじめた。
オール電化などがその最たるもので、文明はより電気エネルギーに依存する方向になっていく結果となる。
またインターネットも普及し、昼でも夜でも地球の裏側の情報までもが簡単に手に取ることが出来るようになった。
このように産業や文明とこの”魔法”は簡単に切り捨てることができない。
しかしそれによる問題も生じていることも確かだ。
例えば時間の区切りが明確でなくなってしまったことから雇用形態に大きな影を落としている。
言い方を変えれば、いつまでも働かされる状態を作り出してしまったということだ。
そのため人は”魔法”により交換が出来る歯車に近づいた。
そして東京のような一極集中型の都市を育ててしまったことは大きな問題だと思う。
現在、東京には約1300万人の人が住んでいると言われている。
オランダが1600万人と近いから比較対象にするが、大凡19分の1の面積でその人口を賄っていることになる。
しかも近隣には千葉(600万人)、埼玉(700万人)、神奈川(900万人)など、準ずる都市がある。
簡単に計算してこの狭い地域に約3500万人、オランダの倍以上の人間が生活しているわけだ。
ということは電気以外にもそれだけの規模を保つための食料、水などが必要となってくる。
もちろん排出する物質も多く、それらを提供、移動し続けるエネルギーもなくてはならないものとなる。
都市化により確かに生活は高効率化したが、恐らく人が与える環境負荷は試算すらし辛い規模になっているはずだ。
ではこれらの前提がある上で原発の是非を考えてみる。
歴史的な流れや技術的な必要性という入り口に関しては間違いなく是と言えると思う。
もし”魔法”現れなければ”ランプの精”により人の住める場所ではなくなってしまっていただろう。
雇用を含めた生活の快適性という点でも入り口は是と言えるかもしれない。
ただその後、それをどう運用していくか?という文化寄りの視点で眺めてみると非という観点も現れる。
刃物というのは使い方を考えなければ自分を傷つける結果になってしまうということかもしれない。
そして最後に環境負荷という部分ではどうだろうか。
文明の発達に寄与した分だけ極端な都市化を進めてしまい、技術の発展以上の負荷を生んでいる。
残念ながらこれは単に福島の原発から発する放射性物質だけの問題ではない。
しかしそう考えると結局は技術を人がどう使うか?という一点の問題のような気がしてくる。
安定したエネルギーを極端にではなく、安全な規模で、安定的に使っていくことが出来れば良かったのだろう。
だがそれには人間や文明の持つ潜在的な意思、本能という部分をコントロールしなくてはならなかった。
言い換えればどこかに理性という質の良いブレーキが欠けていたことが問題とも言えるかもしれない。
今回、超文明都市の脳を決める選挙の争点が原発の問題になったのも1つの流れと見ることもできる。
ただ単純に悪とすることは簡単だが、今ある”魔法”をどう終わらせるかという問題がある。
また魔法の代わりをどうするのか、再び”ランプの精”に頼るのか、別のエネルギーを探すのか。
それとも文明と決別して別の道を選び生きていくのか、考えることは多い。
それらについてもっと長く時間を使い、多くの極端でない論議をしていかなくてはならない。
技術の価値自体に是も非もない、結局はそれを使う「人の意思」なのだ。
2013年7月23日火曜日
歴史の穴
先日のARTOROで炎天下を歩きつつ「何故日本は馬車がないのだろう」と疑問に思っていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%BB%8A
というのも日本は東海道を初めとして五街道がしっかりと整備されている。
それで居て伊勢参りや東海道五十三次などの話から見ると移動がそこそこある”らしい”。
だったらあってもおかしくないのに...何故?
文化的に乗り物が無いのかと考えたけど、人が担ぐ籠があった。
馬が無いかと言うと急ぎのときは早馬を使ったようだし、馬の産地も別に少なくはない。
車輪の導入が遅れていたのか?と考えもしたけれど、大八車などがあった。
ちなみに江戸時代でよく見られた大八車の原形は平安時代には登場しているようだ。
となると技術的にも文化的にもなんら問題がないはず。
そして何より平安貴族は「牛車」に乗っていたから思いつかなかったわけがない。
なのに何故歩くことを選んだのだろう、非常に不思議だ。
これと同じように疑問なのが棍棒という武器。
ゲームをやると良くわかるのだけど、物語序盤を支えてくれる大切で原始的な存在だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%8D%E6%A3%92
日本は森林資源の豊富な国家であることは間違いない。
木造文化もあるし、材料には事欠かない筈...なんだけど、あまりコレと言った印象がないのだ。
一番近いのは棒術で使うものだけど、武器のジャンルとして考えるとClub(棍棒)というよりStaff(杖)に近いと思う。
歴史的にも地域的にも「あっておかしくない道具」がない。
素材的にも文化的にも「手に入りやすい武器」がない。
本来なら「あるはず」のものがない。
この違いは何故起きるのだろう。
歴史の穴というのがどこかにあるのかもしれないけど、不思議で仕方がない。
そう言えば確か第三回の中で「登呂遺跡では武器が見つかっていない」という話があった。
発掘されているのは農具のみ。
争いが少なかったんじゃないか?という話になったけど、よくよく考えてみると農具は武器になる。
硬い素材を使っているし、日常的に触れるものだから扱いに慣れやすい。
だとすれば農業の規模=兵力と素直に考えても良いのかもしれない。
トランプのClubは農民を表すくらいだしね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96_(%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB)
しかし馬車は..どうも日常で代わりとなる存在が見当たらない。
一度は船とも考えたのだけど、山間部も多く流れが急な日本では成立し辛い。
海を行くとしても「多くの中の1つの手段」として捕らえたほうが妥当じゃないだろうか。
もし馬車があれば日本の街並み、発展は大きく変わっただろうに。
同時に車や移動、作業に対する考え方も今とは違ったものになっただろうなぁ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%BB%8A
というのも日本は東海道を初めとして五街道がしっかりと整備されている。
それで居て伊勢参りや東海道五十三次などの話から見ると移動がそこそこある”らしい”。
だったらあってもおかしくないのに...何故?
文化的に乗り物が無いのかと考えたけど、人が担ぐ籠があった。
馬が無いかと言うと急ぎのときは早馬を使ったようだし、馬の産地も別に少なくはない。
車輪の導入が遅れていたのか?と考えもしたけれど、大八車などがあった。
ちなみに江戸時代でよく見られた大八車の原形は平安時代には登場しているようだ。
となると技術的にも文化的にもなんら問題がないはず。
そして何より平安貴族は「牛車」に乗っていたから思いつかなかったわけがない。
なのに何故歩くことを選んだのだろう、非常に不思議だ。
これと同じように疑問なのが棍棒という武器。
ゲームをやると良くわかるのだけど、物語序盤を支えてくれる大切で原始的な存在だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%8D%E6%A3%92
日本は森林資源の豊富な国家であることは間違いない。
木造文化もあるし、材料には事欠かない筈...なんだけど、あまりコレと言った印象がないのだ。
一番近いのは棒術で使うものだけど、武器のジャンルとして考えるとClub(棍棒)というよりStaff(杖)に近いと思う。
歴史的にも地域的にも「あっておかしくない道具」がない。
素材的にも文化的にも「手に入りやすい武器」がない。
本来なら「あるはず」のものがない。
この違いは何故起きるのだろう。
歴史の穴というのがどこかにあるのかもしれないけど、不思議で仕方がない。
そう言えば確か第三回の中で「登呂遺跡では武器が見つかっていない」という話があった。
発掘されているのは農具のみ。
争いが少なかったんじゃないか?という話になったけど、よくよく考えてみると農具は武器になる。
硬い素材を使っているし、日常的に触れるものだから扱いに慣れやすい。
だとすれば農業の規模=兵力と素直に考えても良いのかもしれない。
トランプのClubは農民を表すくらいだしね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96_(%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB)
しかし馬車は..どうも日常で代わりとなる存在が見当たらない。
一度は船とも考えたのだけど、山間部も多く流れが急な日本では成立し辛い。
海を行くとしても「多くの中の1つの手段」として捕らえたほうが妥当じゃないだろうか。
もし馬車があれば日本の街並み、発展は大きく変わっただろうに。
同時に車や移動、作業に対する考え方も今とは違ったものになっただろうなぁ...
2013年7月14日日曜日
鉄道事故
フランスで鉄道事故が起きたらしい。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00249852.html
炎天下の飴のように捻じ曲がる車両を見て、その衝撃の大きさを感じる。
私も機械を触る人間の端くれだから、今回の事故を反面教師にしないといけない。
ふと福知山線を思い出した人も多いんじゃないだろうか。
日本で起きた痛ましい事故。
思えばあの日、祖母が広島から大阪へと引っ越す日だった。
家族の中で「もしかして...」という恐怖が走ったのをよく覚えている。
結局事故からは回避できていて一安心。
もう亡くなってしまったが、最期の寝顔が綺麗だったことは喜んでいいのかもしれない。
確か日本もフランスも高速鉄道の輸出をしている。
だからあの時も、今回についても広がる衝撃と言うのは大きく強いものだと思う。
新幹線でもTGVでもない。
ただそれらを支えている技術であることは間違いない。
それを考えていたら精密機械ほど壊れやすいということを思い出した。
調整もこまかく行っているし、校正も掛かっているから非常に正確な数値が出せる機械。
しかし一度狂うと「取り返し」がつかなくなってしまう。
もしかすると鉄道輸出国のフランスと日本とを繋ぐものはこれなのかもしれない。
設備はもちろん、人も消耗するものだ。
より精密な管理は必要だけれど、もし飽和しているのであればいつ事故が起きてもおかしくない。
努力が逆に管理できない、予期できないものを見過ごしてしまう可能性も増える。
顕微鏡で大きな物を眺めているような感じだろうか。
それでは全体像に見えるどこかの狂いが察知できない。
一度設備に対して多くのものが「適正かどうか」を確かめなくてはいけない。
それにはアクセルを緩め、ブレーキをかける勇気も必要になる。
ただそれが出来るのが経営責任者だけなら、それを決断するのも彼らの仕事だ。
水のように湧き出た金を飲み続けるのは詐欺師に任せておけばいい。
私は私でこの事故を受け止めて、色々と教訓にしたいと思う。
そして願わくば「エンジニア」という存在について、もうちゃんとした少し目が向けられたら...と。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00249852.html
炎天下の飴のように捻じ曲がる車両を見て、その衝撃の大きさを感じる。
私も機械を触る人間の端くれだから、今回の事故を反面教師にしないといけない。
ふと福知山線を思い出した人も多いんじゃないだろうか。
日本で起きた痛ましい事故。
思えばあの日、祖母が広島から大阪へと引っ越す日だった。
家族の中で「もしかして...」という恐怖が走ったのをよく覚えている。
結局事故からは回避できていて一安心。
もう亡くなってしまったが、最期の寝顔が綺麗だったことは喜んでいいのかもしれない。
確か日本もフランスも高速鉄道の輸出をしている。
だからあの時も、今回についても広がる衝撃と言うのは大きく強いものだと思う。
新幹線でもTGVでもない。
ただそれらを支えている技術であることは間違いない。
それを考えていたら精密機械ほど壊れやすいということを思い出した。
調整もこまかく行っているし、校正も掛かっているから非常に正確な数値が出せる機械。
しかし一度狂うと「取り返し」がつかなくなってしまう。
もしかすると鉄道輸出国のフランスと日本とを繋ぐものはこれなのかもしれない。
設備はもちろん、人も消耗するものだ。
より精密な管理は必要だけれど、もし飽和しているのであればいつ事故が起きてもおかしくない。
努力が逆に管理できない、予期できないものを見過ごしてしまう可能性も増える。
顕微鏡で大きな物を眺めているような感じだろうか。
それでは全体像に見えるどこかの狂いが察知できない。
一度設備に対して多くのものが「適正かどうか」を確かめなくてはいけない。
それにはアクセルを緩め、ブレーキをかける勇気も必要になる。
ただそれが出来るのが経営責任者だけなら、それを決断するのも彼らの仕事だ。
水のように湧き出た金を飲み続けるのは詐欺師に任せておけばいい。
私は私でこの事故を受け止めて、色々と教訓にしたいと思う。
そして願わくば「エンジニア」という存在について、もうちゃんとした少し目が向けられたら...と。
2013年7月12日金曜日
ARTORO参加記録 第三回目検地
今月のARTOROは「田んぼの面積を測ってみよう」ということでまずは田んぼへ向かいました。
http://toro-museumshop.jp/artoro
...しかし暑い、暑い、暑い、暑い。
今年の夏は本気で我々を殺そうとしてますね。
それほどまでに日差しは強く、照り返しはきつく、風も吹かずに体力だけを削ってくれました。
で、田んぼで検地。
今回出されていた宿題は「1歩を60cmにすること」でした。
でも色々あって考えて煮詰める余裕が無かったので勘に頼りました。
大体廊下の幅が83cmだからドアがこれくらいで...肩幅と比べると...
とか言いつつ、側溝の蓋を参考にしたのはナイショです。
http://www.maruei-con.co.jp/catalogue/015/007_jis.htm
検地が終わったら登呂遺跡に帰還。
途中の公園で子供が汗だくな私たちが列を成して歩いてるのを面白そうに見ていました。
多分彼女たちから見ると蟻と変わらなかったのかもしれないですね。
帰還してからはこの前植えた水田も検地。
田んぼの中にはデカい貝、おたまじゃくし、ザリガニなど色んな生物が居ました。
どれも外来種らしいんだけど、まぁ普通の都市圏で1万年前の環境が残ってるなんてことはないですからね。
これもある意味では自然の1つの形なんじゃないかと思います。
ザリガニで少し盛り上がってからは発表会。
...なんですが、何よりエアコンの素晴らしさに脱帽しましたね。
VIVA、文明の積み上げ、文明の利器。
発表会は初となる討論式?みたいな感じで気になるところを幾つか聞けたので良かったです。
しかしやっぱり移動、輸送などをどうやってたかが気になりますわね。
だってさ、仮にちょっとずつ採ったにしても結構な量になると思うんだよね。
その日の分だけならわかるけど、それだと他の疑問も出てくる。
昔の登呂遺跡はもっと川辺だったから船が一番確率高いはずなんだけどなー。
なんも論拠も証拠もないのが痛いところだ。
そう言えば炎天下を歩いていてふと疑問に思ったんですよ。
日本は街道がある程度整備されてるのに何故馬車が定着しなかったんだろって。
ある程度文明の発達していた江戸時代なんかも基本的には徒歩。
車輪が無かったのかと言うとそうではないみたいだし、平安時代には牛車もあった。
なのに何故そういう考えが出てこなかったのか、もしくは定着しなかったのか。
それとも別の何か、代わりとなる存在があったのか...?
ただその存在があれば、色んなものが今とは大きく変わってたのかもしれないですね。
町の作り方とか、人の動きとか、農業についてとか。
ちょっと新たに思考を巡らせて見ようかな、と思った第三回でした。
日本は街道がある程度整備されてるのに何故馬車が定着しなかったんだろって。
ある程度文明の発達していた江戸時代なんかも基本的には徒歩。
車輪が無かったのかと言うとそうではないみたいだし、平安時代には牛車もあった。
なのに何故そういう考えが出てこなかったのか、もしくは定着しなかったのか。
それとも別の何か、代わりとなる存在があったのか...?
ただその存在があれば、色んなものが今とは大きく変わってたのかもしれないですね。
町の作り方とか、人の動きとか、農業についてとか。
ちょっと新たに思考を巡らせて見ようかな、と思った第三回でした。
ビィールで乾杯
毎日JPにこんな記事が載っていた。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130628k0000m070099000c.html
公開期間が越えてると見れないので解説するとこんな感じ。
---------------------------------------------
昔、福沢諭吉が「西洋衣食住」という本で酒について語っていた。
その中でビィールについて少し詳しい文があり、そこではビィールの苦味について語られている。
多分諭吉さんは日本の夏とビィールの相性の良さに衝撃を受けただろう。
近年若者がビィールを「苦い」と言って飲まないが、指導したい。
若いと苦いは似てるだろ。
年取ってこの美味さを理解できるようにならなきゃいけない。
じゃぁいつ飲むか?今でしょ。
きっと迷惑がられるだろうな。
若いときはこの苦味と向き合うのが大人の儀式だったのにな。
---------------------------------------------
...怒られないようにかなり端折ってます。
言いたいことは良くわかりますね。
私もビールが飲めるようになったら大人!という意識がありました。
子供のころもよく正月に「おうお前も飲むか?」なんて言われました。
試しに泡だけ舐めてみるんだけど撃沈し、苦い子供の顔を見て大人が笑う。
こんな風景はどこにでも転がってたような覚えがあります。
私は悔しかったので特訓しました。
とは言っても酒なんて飲める年齢じゃないですからね。
なんとか身近なもので代用しました。
当時は丁度、缶コーヒーにブラック無糖や微糖などが出始めの時代。
まさに渡りに船でしたね。
もちろん最初は苦痛の連続。
でも「吐き出すのはカッコ悪い」と思って日々飲み続けました。
これと時期を同じくして秋刀魚のワタなどにも挑戦していきました。
最初は大根おろしまみれにして苦味を消し、徐々にワタの比率を上げて行きます。
缶コーヒーと同様「吐き出すのはカッコ悪い」と思い、日々挑戦し続けました。
結果的に現在、ビールもコーヒーも秋刀魚のワタも美味しくいただけるようになりました。
でも「飲めよ食えよ」とはあまり強制したくないですね。
苦手な人は苦手でも構わないと思います。
実際私も全てのビールを受け入れてるわけじゃないですからね。
どうもスーパードライ系の妙な辛口は未だに苦手...
http://www.asahibeer.co.jp/superdry/
逆に好きなのは下のような感じです。
ハイネケン(オランダ)
http://www.heineken.com/jp/home.aspx
ザ・マスター(日本 アサヒ)
http://www.asahibeer.co.jp/the_master/
よなよなエール(日本)
http://www.yonasato.com/
エビス(日本 サッポロ)
http://www.sapporobeer.jp/yebisu/
クラッシック(日本 サッポロ北海道限定商品)
http://www.sapporobeer.jp/classic/index.html
プレミアムモルツ(日本 サントリー)
http://www.suntory.co.jp/beer/premium/index.html?fromid=beer_top_pc
もう少し外国のビールに詳しかったら格好つくんですけどね。
基本的にスーパーに置いてあるものしかわからないのがちょっと残念。
毎日飲むには少し価格のハードルが高いかな...
だから「とりあえずビール」じゃなくて「今日はビール」で飲みます。
基本的に好きなものを美味しく楽しめる分だけ飲む、というのが一番だと思います。
料理も同じで、特別苦手なものを無理して食べる必要は無いんじゃないかな。
興味を持つのは正しいことかもしれないけど、それを押し付けるのは道理が通らない。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130628k0000m070099000c.html
公開期間が越えてると見れないので解説するとこんな感じ。
---------------------------------------------
昔、福沢諭吉が「西洋衣食住」という本で酒について語っていた。
その中でビィールについて少し詳しい文があり、そこではビィールの苦味について語られている。
多分諭吉さんは日本の夏とビィールの相性の良さに衝撃を受けただろう。
近年若者がビィールを「苦い」と言って飲まないが、指導したい。
若いと苦いは似てるだろ。
年取ってこの美味さを理解できるようにならなきゃいけない。
じゃぁいつ飲むか?今でしょ。
きっと迷惑がられるだろうな。
若いときはこの苦味と向き合うのが大人の儀式だったのにな。
---------------------------------------------
...怒られないようにかなり端折ってます。
言いたいことは良くわかりますね。
私もビールが飲めるようになったら大人!という意識がありました。
子供のころもよく正月に「おうお前も飲むか?」なんて言われました。
試しに泡だけ舐めてみるんだけど撃沈し、苦い子供の顔を見て大人が笑う。
こんな風景はどこにでも転がってたような覚えがあります。
私は悔しかったので特訓しました。
とは言っても酒なんて飲める年齢じゃないですからね。
なんとか身近なもので代用しました。
当時は丁度、缶コーヒーにブラック無糖や微糖などが出始めの時代。
まさに渡りに船でしたね。
もちろん最初は苦痛の連続。
でも「吐き出すのはカッコ悪い」と思って日々飲み続けました。
これと時期を同じくして秋刀魚のワタなどにも挑戦していきました。
最初は大根おろしまみれにして苦味を消し、徐々にワタの比率を上げて行きます。
缶コーヒーと同様「吐き出すのはカッコ悪い」と思い、日々挑戦し続けました。
結果的に現在、ビールもコーヒーも秋刀魚のワタも美味しくいただけるようになりました。
でも「飲めよ食えよ」とはあまり強制したくないですね。
苦手な人は苦手でも構わないと思います。
実際私も全てのビールを受け入れてるわけじゃないですからね。
どうもスーパードライ系の妙な辛口は未だに苦手...
http://www.asahibeer.co.jp/superdry/
逆に好きなのは下のような感じです。
ハイネケン(オランダ)
http://www.heineken.com/jp/home.aspx
ザ・マスター(日本 アサヒ)
http://www.asahibeer.co.jp/the_master/
よなよなエール(日本)
http://www.yonasato.com/
エビス(日本 サッポロ)
http://www.sapporobeer.jp/yebisu/
クラッシック(日本 サッポロ北海道限定商品)
http://www.sapporobeer.jp/classic/index.html
プレミアムモルツ(日本 サントリー)
http://www.suntory.co.jp/beer/premium/index.html?fromid=beer_top_pc
もう少し外国のビールに詳しかったら格好つくんですけどね。
基本的にスーパーに置いてあるものしかわからないのがちょっと残念。
毎日飲むには少し価格のハードルが高いかな...
だから「とりあえずビール」じゃなくて「今日はビール」で飲みます。
基本的に好きなものを美味しく楽しめる分だけ飲む、というのが一番だと思います。
料理も同じで、特別苦手なものを無理して食べる必要は無いんじゃないかな。
興味を持つのは正しいことかもしれないけど、それを押し付けるのは道理が通らない。
選挙
http://agora-web.jp/archives/1547039.html
------------------------------
選挙は昔から見てるのが好きだけど、いつも疑問に思うことがある。
走りまくる街宣車からは「●●でございます」と名前が聞こえてくる。
でもその人がどんな人で、何をやって、何をやろうとしてるのかがわからない。
今でも大半の候補者はそんな感じだと思う。
それで何を選べというのだろうか?
10年ほど前だけど、近所でやってた某党議員の演説を聞きに行ったことがある。
ちなみに足を運んでるのは私1人だけだった。
その人はチラチラと私を見つつも、さも大勢居る観客に声をかけるかのように演説していた。
目の前の1人に集中して話してみれば熱意とか意見とか伝わるかもしれないのにな、と残念に思っていた。
最後までじっくり聞いていたのだけど、結局終始そんな感じ。
だから某党が芸能人使いたくなる気持ちもわからんでもないんですよね。
それほど政治家さんが人を引き付ける力に長けてないし、そもそもそういう技術が無い。
私がもし選挙出るなら、少なくとも数年は劇団にでも入って色々と習得してからだろうなと思った。
いや、そんな予定は微塵にもありませんが。
確かアメリカは演説の原稿、立ち振る舞い、スタイルなど全てが管理されているらしい。
政治家という1つのチームに対する評価になるため、みんな全力なんだろう。
ヨーロッパはどうなんだろうか。
詳しくし聞いたことも無いのでわからないけど、なんとなく人の資質や考えで選んでる気がする。
なんとなく表現するなら腕の良い技術者を選んでるようなイメージ?
では名前を連呼するのが中心の日本は何を伝えて、何をしていきたいんだろう。
そのために何をしていく必要があるんだろう?
汗を尊ぶのはご尤もだけど、もう少し近代的な考え方になる必要があると思う。
日本の進む「正しい道」はそこにあるんじゃないかな。
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選挙は昔から見てるのが好きだけど、いつも疑問に思うことがある。
走りまくる街宣車からは「●●でございます」と名前が聞こえてくる。
でもその人がどんな人で、何をやって、何をやろうとしてるのかがわからない。
今でも大半の候補者はそんな感じだと思う。
それで何を選べというのだろうか?
10年ほど前だけど、近所でやってた某党議員の演説を聞きに行ったことがある。
ちなみに足を運んでるのは私1人だけだった。
その人はチラチラと私を見つつも、さも大勢居る観客に声をかけるかのように演説していた。
目の前の1人に集中して話してみれば熱意とか意見とか伝わるかもしれないのにな、と残念に思っていた。
最後までじっくり聞いていたのだけど、結局終始そんな感じ。
だから某党が芸能人使いたくなる気持ちもわからんでもないんですよね。
それほど政治家さんが人を引き付ける力に長けてないし、そもそもそういう技術が無い。
私がもし選挙出るなら、少なくとも数年は劇団にでも入って色々と習得してからだろうなと思った。
いや、そんな予定は微塵にもありませんが。
確かアメリカは演説の原稿、立ち振る舞い、スタイルなど全てが管理されているらしい。
政治家という1つのチームに対する評価になるため、みんな全力なんだろう。
ヨーロッパはどうなんだろうか。
詳しくし聞いたことも無いのでわからないけど、なんとなく人の資質や考えで選んでる気がする。
なんとなく表現するなら腕の良い技術者を選んでるようなイメージ?
では名前を連呼するのが中心の日本は何を伝えて、何をしていきたいんだろう。
そのために何をしていく必要があるんだろう?
汗を尊ぶのはご尤もだけど、もう少し近代的な考え方になる必要があると思う。
日本の進む「正しい道」はそこにあるんじゃないかな。
2013年6月25日火曜日
ボトルシップ・マン
漠然と「これを作りたいなあー」と思うものがある。
ただゴールの姿は見えてるのに、その道順がわからないことが多い。
なので、うーん...と悩んでしまう。
これはいっぱい考えて、組み上げて、頭の中で出来上がったもの。
それを取り出せなくて苦しんでいる、と言い換えることが出来るかもしれない。
出来上がったものに対しての出入り口が小さすぎるのだ。
多分、頭の中でボトルシップを作ってしまったのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97
元々部品を素直に外で組めば良いのだと思う。
そうしたら風呂でだって川でだって海でだって船を浮かべることが出来る。
ただ、たまたまボトルの中で作ってしまったからそれが出来ない。
この世の中の多くは、そうしたボトルシップ・マンがいっぱい暮らしていると思う。
私もそのうちの1人だと思うのだけど、組み上げたアイデアをどう頭の中から出すのかで悩む。
簡単に考えると丁寧に部品を外し、少しずつ外に持ち出せば良いはず。
なのだけど、何せ会心の出来栄えだ。
何とかしてそのまま瓶から出せないかと悩んでしまう。
しかもボトルが透明なら良かっただろうに。
これがまた骨に覆われ、皮膚に覆われ、中身が見れないと来ている。
だから唯一の口から、その見事な姿を必死に言葉で伝えようとしてしまうのだろう。
しかし悲しいことにそれでは伝わらないから頭の中だけで孤独な航海を続けていくことになる。
もしかすると町ですれ違う人はみんなそんな孤独な船乗りなのかもしれない。
人というのはなんとも、器用な分だけ不器用であるね。
ただゴールの姿は見えてるのに、その道順がわからないことが多い。
なので、うーん...と悩んでしまう。
これはいっぱい考えて、組み上げて、頭の中で出来上がったもの。
それを取り出せなくて苦しんでいる、と言い換えることが出来るかもしれない。
出来上がったものに対しての出入り口が小さすぎるのだ。
多分、頭の中でボトルシップを作ってしまったのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97
元々部品を素直に外で組めば良いのだと思う。
そうしたら風呂でだって川でだって海でだって船を浮かべることが出来る。
ただ、たまたまボトルの中で作ってしまったからそれが出来ない。
この世の中の多くは、そうしたボトルシップ・マンがいっぱい暮らしていると思う。
私もそのうちの1人だと思うのだけど、組み上げたアイデアをどう頭の中から出すのかで悩む。
簡単に考えると丁寧に部品を外し、少しずつ外に持ち出せば良いはず。
なのだけど、何せ会心の出来栄えだ。
何とかしてそのまま瓶から出せないかと悩んでしまう。
しかもボトルが透明なら良かっただろうに。
これがまた骨に覆われ、皮膚に覆われ、中身が見れないと来ている。
だから唯一の口から、その見事な姿を必死に言葉で伝えようとしてしまうのだろう。
しかし悲しいことにそれでは伝わらないから頭の中だけで孤独な航海を続けていくことになる。
もしかすると町ですれ違う人はみんなそんな孤独な船乗りなのかもしれない。
人というのはなんとも、器用な分だけ不器用であるね。
2013年6月24日月曜日
topgear
先日、相方とtopgearをチビチビと見始めました。
現在シーズン7まで来たんですが、本放送はもう20まであるんですね。
中身が良い意味で「イカレてる」のが凄く楽しい。
実験なのかただの無茶なのか...いや、ただの無茶な実験なのかな。
わからないんだけど、その実験や表現についてちゃんとした基準や理屈があって安心できます。
番組のつくりに必ず驚きと納得の繰り返しがあるのが良いですね。
だからでしょうか、オッサンが楽しそうにヒートアップしてるのを見ててカッコ良く感じます。
メイン司会のジェレミーなんて、ただの偏屈なのにね。
でも変なところは変、ダメなところはダメ、おかしいところはおかしいとちゃんと言ってくれる。
見ていて「どうなんだろ?」って気になるところをちゃんと指摘するから、なるほど!と思える。
もちろん、褒めるときはしっかり褒めるのも良い。
日本のバラエティみたいに冷やかし風じゃなく、真剣にやってるのが素晴らしい。
だから自分のイメージだけでこういう印象になってたんだなって感じることも多い。
逆に考えがあってた!っていうところも多い。
こういう見る側と縁者に共通点が出来る番組はやっぱり売れるよね。
topgearを見た後にスカパーでチラッと見た車の番組があったんだけど...なんかヌルい。
知識がある人が知識がある人に伝えてるというか、知識がない人はおいていかれるというか。
聞いていて「これが言いたい」ってポイントが全然つかめない。
見ていて凄く不思議だった。
だって方や英語の、細かい表現なんてわからない字幕のテレビ番組。
もう一方は自分と同じ日本語を使っているテレビ番組。
普通に考えたら前者に出番はないだろう。
でも言いたいこと、体温がしっかり伝わってくるのは圧倒的に前者だ。
だから面白く感じるのもやっぱり前者だし、また見たくなるのもやっぱり前者だ。
これはもしかすると「外国かぶれ」になった私の偏見なのかもしれない。
でも疑問をしっかり形にしたり、それを伝えようと色んな手法を取ったりする事は良い事だと思う。
そう言う意味でもtopgearは「よく考えられた番組」だなと感じる。
使用機材:appleTV
使用サービス:Hulu
2013年6月22日土曜日
視力
私は視力が低いのでメガネが手放せない。
しかし先日、ちょっとしたアクシデントがあり歪んでしまった!
目というのは人の脳が光を取り込み、情報を判別するための道具だ。
その道具の性能がおかしくなり、メガネという道具で補正している。
考えてみると非常に不思議な話でもある。
例えば割れたお湯飲みがあるとしよう。
それでお茶を飲むにはヒビ割れをなんとかする必要がある。
普通ならヒビ割れをなんとか埋めたり、お湯飲みを交換する方法をとると思う。
ただ目は内臓であり、なかなか治療や交換が効くものではない。
ではどうしたかというと...例えるなら割れたお湯のみを大きめのドンブリの中に入れて、そこにお茶を注いでいるような感じだろうか。
お茶を飲むにはもちろん不便だ。
慣れてしまえばどうということはないものの、やはり素直に飲むほうが良いに決まっている。
そう考えると少し前に流行った「メガネ男子」なんかは不思議な現象かもしれない。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%8D%E7%94%B7%E5%AD%90-%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88/dp/4757211740
ところで久々にメガネを外していて、ふと面白いなと思うところがあった。
メガネのない世界は単純に視界がボヤケていて、輪郭がハッキリしない。
室内だとわかりづらかったんだけど、外に出たときに「この絵はどこかで見たことがある!」と興奮してしまった。
いや、まあどこかで見たことあるって家の前だからね。
毎日見ている景色ではあるわけで、見たことがあるのは間違いない。
でもなんというか、妙に受ける印象が違っている。
なんだろう、なんか気になるな...頭の中で引っかかってるな...
そう思って考えてみたら、どうも写実主義と印象派の絵の違いに辿り着いた。
先日足を運んだウィーンのレオポルト美術館で見比べた感じに近い。
相方から話は聞いてはいたのだけど、なんでこんな表現になったのか不思議でしょうがなかった。
絵に輪郭を用意しないとは余程の変わり者か天邪鬼か...
とか思っていたのだけど、初めてその技法に気がついた人は目が悪かったのかもしれない。
だから自然と暗い絵よりも明るい絵を描くようになったのかな?と。
いや、いつもの勝手な推測なんで的外れかもしれないんだけどね。
もしそうだとすると、自分の目は凄く贅沢だなとも感じる。
結局はドンブリの中のお湯飲みではあるし、正直メガネなんて面倒くさい。
だけど目の前には写実と印象の二つの世界が常にあり、それを自由に選ぶことが出来る。
視力が良い人と比べると二面性のある世界をしっかり楽しめるのだ。
なのでたまにはメガネを外してボンヤリ歩いてみるのも良いのかもな、と思えた。
予期できないアクシデントもなかなか良い発見になるものだね。
しかし先日、ちょっとしたアクシデントがあり歪んでしまった!
目というのは人の脳が光を取り込み、情報を判別するための道具だ。
その道具の性能がおかしくなり、メガネという道具で補正している。
考えてみると非常に不思議な話でもある。
例えば割れたお湯飲みがあるとしよう。
それでお茶を飲むにはヒビ割れをなんとかする必要がある。
普通ならヒビ割れをなんとか埋めたり、お湯飲みを交換する方法をとると思う。
ただ目は内臓であり、なかなか治療や交換が効くものではない。
ではどうしたかというと...例えるなら割れたお湯のみを大きめのドンブリの中に入れて、そこにお茶を注いでいるような感じだろうか。
お茶を飲むにはもちろん不便だ。
慣れてしまえばどうということはないものの、やはり素直に飲むほうが良いに決まっている。
そう考えると少し前に流行った「メガネ男子」なんかは不思議な現象かもしれない。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%8D%E7%94%B7%E5%AD%90-%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88/dp/4757211740
ところで久々にメガネを外していて、ふと面白いなと思うところがあった。
メガネのない世界は単純に視界がボヤケていて、輪郭がハッキリしない。
室内だとわかりづらかったんだけど、外に出たときに「この絵はどこかで見たことがある!」と興奮してしまった。
いや、まあどこかで見たことあるって家の前だからね。
毎日見ている景色ではあるわけで、見たことがあるのは間違いない。
でもなんというか、妙に受ける印象が違っている。
なんだろう、なんか気になるな...頭の中で引っかかってるな...
そう思って考えてみたら、どうも写実主義と印象派の絵の違いに辿り着いた。
先日足を運んだウィーンのレオポルト美術館で見比べた感じに近い。
相方から話は聞いてはいたのだけど、なんでこんな表現になったのか不思議でしょうがなかった。
絵に輪郭を用意しないとは余程の変わり者か天邪鬼か...
とか思っていたのだけど、初めてその技法に気がついた人は目が悪かったのかもしれない。
だから自然と暗い絵よりも明るい絵を描くようになったのかな?と。
いや、いつもの勝手な推測なんで的外れかもしれないんだけどね。
もしそうだとすると、自分の目は凄く贅沢だなとも感じる。
結局はドンブリの中のお湯飲みではあるし、正直メガネなんて面倒くさい。
だけど目の前には写実と印象の二つの世界が常にあり、それを自由に選ぶことが出来る。
視力が良い人と比べると二面性のある世界をしっかり楽しめるのだ。
なのでたまにはメガネを外してボンヤリ歩いてみるのも良いのかもな、と思えた。
予期できないアクシデントもなかなか良い発見になるものだね。
2013年6月21日金曜日
幼虫小劇場
先日会社の入り口にダンゴムシが居た。
踏んで潰さないように指でつついて丸まらせて、安全なところへポイ。
ダンゴムシ、達者でな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%A0%E3%82%B7
その後ろには何故かカブトムシの幼虫のような生き物が居た。
体は白くて顔や足が黄色っぽくて、尾の先?には黒い内臓的なものがある。
なんとなく馴染みのある「This is 幼虫」みたいな幼虫だった。
これも潰さないように捕獲...しようと思ったのだけど、指で触るのは嫌だな...
そう思ったのでイラナイ紙を持ってきて、保護して、土の上に捨ててこようと判断。
早速実行に移してみた。
まずは紙を破いて適度な大きさにする。
それでチョン!と突く。
と「やーらーれーたー!」みたいなオーバーアクションの後、バタッと動かなくなる。
死んだかな?と思って観察してたら、少しの時間が経ってから動き出した。
紙の上に載せるためにもう一回やってみると、また同じ反応。
子供に「バーン!」と撃たれて「やーらーれーたー!」ってやるお父さんみたいな...
その大衆演劇、どこで習ったの?と聞きたくなるような大根演技っぷりだったのだけど、自衛本能なのか?
誰も何も教えてくれない幼虫でもこういうことやるんだな、と感心してしまった。
だってあいつら孤独で土の中にいるんだよ?
結局紙の上になんとか載せ、無事に土の上へ移動。
変なのに襲われなきゃ、無事に生き抜いてくれるでしょう。
そしていつか成虫になって再会したときには松田優作さん張りの演技で度肝を...
http://www.youtube.com/watch?v=gjl8ovjOm5A
踏んで潰さないように指でつついて丸まらせて、安全なところへポイ。
ダンゴムシ、達者でな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%A0%E3%82%B7
その後ろには何故かカブトムシの幼虫のような生き物が居た。
体は白くて顔や足が黄色っぽくて、尾の先?には黒い内臓的なものがある。
なんとなく馴染みのある「This is 幼虫」みたいな幼虫だった。
これも潰さないように捕獲...しようと思ったのだけど、指で触るのは嫌だな...
そう思ったのでイラナイ紙を持ってきて、保護して、土の上に捨ててこようと判断。
早速実行に移してみた。
まずは紙を破いて適度な大きさにする。
それでチョン!と突く。
と「やーらーれーたー!」みたいなオーバーアクションの後、バタッと動かなくなる。
死んだかな?と思って観察してたら、少しの時間が経ってから動き出した。
紙の上に載せるためにもう一回やってみると、また同じ反応。
子供に「バーン!」と撃たれて「やーらーれーたー!」ってやるお父さんみたいな...
その大衆演劇、どこで習ったの?と聞きたくなるような大根演技っぷりだったのだけど、自衛本能なのか?
誰も何も教えてくれない幼虫でもこういうことやるんだな、と感心してしまった。
だってあいつら孤独で土の中にいるんだよ?
結局紙の上になんとか載せ、無事に土の上へ移動。
変なのに襲われなきゃ、無事に生き抜いてくれるでしょう。
そしていつか成虫になって再会したときには松田優作さん張りの演技で度肝を...
http://www.youtube.com/watch?v=gjl8ovjOm5A
死の概念
人の最終目標って言うと、多分「不老不死」になるんだろうな。
文明って言うものに気がついてから...
いや、支配されてからは少なからずその方向に向かっていると思う。
多分全ての生き物の中で、唯一「死に対する恐怖感」を持っているんじゃないだろうか。
そしてそこから逃げている。
逃げて逃げて逃げ切ろうとしている。
ただ面白いのが、距離をとれば取るほど恐怖感は増している気がする。
社会が少し過保護になってきているのはその表れじゃないだろうか。
同時にその恐怖感が文明という生き物の正体なのだとも思う。
ところで不老不死に辿り着いたとして。
人にとって死と言うのが身近なものではなくなる、もしくは概念化する。
その中で「終わり」への恐怖を持ち続けるのか、それとも興味や渇望を持つのかが気になる。
何故か。
簡単な話、普段であれば人は空気が失われたら?なんてことを考えることは無い。
それは無くならないという、ある程度「暗黙の前提」があるからだと思う。
例えば江戸時代などは彗星が来るなんて話があれば息を止めてやり過ごしたなんて話がある。
これはどこからか「彗星が空気をもっていってしまう」なんて噂が出てきたかららしい。
当時の天文学がどこまで進んでいたかは知らないが、非常に面白い現象だ。
というのもこの話、彗星をやり過ごしてしまえば安泰となってしまう。
言い方を変えると「危機が去れば空気が無くなることはない」となるのだろうか。
逆の例として空気の喪失に恐怖を感じるのは洞窟、潜水艦などの閉鎖的環境が挙げられる。
この状況であれば多くの人が「もし崩落したら」「何かの故障で」と考えてしまうだろう。
実際にそんなことが起きていなくても、気分だけで少し息苦しくなる。
しかしそう極端に考えなければ「空気が無くなるなんて」と思うのが普通じゃないだろうか。
だからもし今後不老不死に辿り着いたとして。
死の概念から今よりずっと遠ざかり、意識すらもしなくなったときに「どう考えるか」が気になってしまう。
野生動物や文明に触れる前の人間などは死の概念を持っていないと思う。
多分「油断すれば終わり」というくらいに死という存在が近いからじゃないだろうか。
私たちで言う空気のように、当たり前にそこに存在するもので特別に疑う必要性が無い。
文明に生きる上で感じる「恐怖」というのはもしかすると概念を持ってしまったからかもしれない。
栄養価が変化し、より身の危険から遠ざかることで、身近で見えなかった死というものが視覚に入ってしまった。
だから一目散に逃げることで、自然と不老不死へと向かっているのだろう。
でも遠ざかれば遠ざかるほど怖くなる。
逃げても逃げても逃げても、後ろを振り返ればいつもそこに居る。
人は文明化してまで死の概念から逃げている。
だけど面白いもので、自殺というのは環境の良い国や先進国の方が多いらしい。
どちらかというと死の概念に近い国や地域のほうが恐怖感を感じていないのかもしれない。
だとすれば。
人がこの先不老不死に辿り着いたとしても恐怖に終われて生きて行くだろう。
まるで西遊記のように、ヤンチャなサルは釈迦の掌から抜け出すことはできないのかもしれない。
そして生きて逃げ切れない恐怖に対して打てる手段は...
と結論を書くと怖くて寝れなくなるかもしれないからやめておきましょう。
2013年6月20日木曜日
ハナタレ小僧の見たアメリカ
今よりも遥か昔の話。
三保の海へ来た私は海の向こうに見える「それ」を見てこう思った。
いつかアメリカ行ってみたいな!
しばらくして「それ」がアメリカではないことに気がついた。
私がアメリカだと思っていた「それ」は伊豆半島。
知識がある今では「ねーよ!」と笑えるものの、当時は凄く真剣だった。
当時の私は駿河湾を太平洋だと思っていた。
というのも「海の向こうはアメリカ」という教え方をされたからだろう。
だからこの考えは間違っていない!と、今でもそう思っている。
素直な良い子じゃん!...とは流石に思わないけど。
でももしかすると、小さな私には「アメリカ」がちゃんと見えてたのかな?って気もする。
全てを知る前はその海の向こうでどんな人達がどんな生活をしているのか。
毎日ワクワクしながら考えていた。
今となってはあまりに遠い記憶となってしまった。
延々と先の見えない海で遮られていて、私の「アメリカ」がどんなものなのか思い出せない。
だけど「それ」を見る度に、目を輝かせてるハナタレ小僧の姿が見える。
...待ってろよ、いつか連れて行ってやるからな。
三保の海へ来た私は海の向こうに見える「それ」を見てこう思った。
いつかアメリカ行ってみたいな!
しばらくして「それ」がアメリカではないことに気がついた。
私がアメリカだと思っていた「それ」は伊豆半島。
知識がある今では「ねーよ!」と笑えるものの、当時は凄く真剣だった。
当時の私は駿河湾を太平洋だと思っていた。
というのも「海の向こうはアメリカ」という教え方をされたからだろう。
だからこの考えは間違っていない!と、今でもそう思っている。
素直な良い子じゃん!...とは流石に思わないけど。
でももしかすると、小さな私には「アメリカ」がちゃんと見えてたのかな?って気もする。
全てを知る前はその海の向こうでどんな人達がどんな生活をしているのか。
毎日ワクワクしながら考えていた。
今となってはあまりに遠い記憶となってしまった。
延々と先の見えない海で遮られていて、私の「アメリカ」がどんなものなのか思い出せない。
だけど「それ」を見る度に、目を輝かせてるハナタレ小僧の姿が見える。
...待ってろよ、いつか連れて行ってやるからな。
2013年6月19日水曜日
入山料
世界遺産に選ばれた富士山に入山料が課されるらしい。
その額、1人あたり千円。
...随分安いな。
というのが実のところの感想だったりします。
確かに手ごろではあるんだけど、軽く手が出そうでちょっとヤラシイ額だなー。
ちなみにヒマラヤの場合は最低が10人で5000ドルだから1人頭500ドル程度らしい。
http://www.kachispo.com/k/124/
1ドルを100円とすると5万円か。
世界一の山だからっていうのもあるだろうけど、妥当かなと感じる。
危険であるし、何より管理が難しいのだからある程度高くて当然だと思う。
それから行くと富士山もどうだろうな...最低1万円は取った方が良いんじゃないだろうか。
ある程度の費用が集まればゴミ拾いなどもボランティアに頼らなくても済む。
そこに雇用が生まれれば「山が好き」というだけでも、それなりに生活をしていけるかもしれない。
生活サイクルの中にしっかり組み込めれば、本当に意味のある世界遺産になると思う。
そもそも私はボランティアという考え方が凄く嫌いなのだよね。
というのも、それは対価が見えない労働だからです。
これが短時間、短期間だったら経験という対価も期待できる。
その経験を元に起業したり、新しいアイデアを具現化したりすることで得られるものがある。
逆に長期間続いたり定期的に規則正しく行われると、その具現化、アウトプットの機会が奪われてしまう。
それでは仮に得られた経験も生かすことができない。
奉仕というのは聞こえは良いのだけど、度を過ぎれば悪影響になる。
得にこういう公共の問題において考える場合「対価」というのは常に頭に入れておく必要があると思う。
得に世界遺産で観光を思うなら、まずゴミ拾いやガイドの出来るプロフェッショナルを作る必要がある。
それには雇用もそうだし安全で確実なシステム作り、例外を認めない厳格なルール整備などが必要になってくるはず。
なのに入山料1000円という数字がそれをちゃんと想定できてるのかと考えると、正直疑問なのですよ。
同時にその思考サイクルの破綻がどうも日本の足を大きく引っ張っているなと思うわけです。
だって新しく火を熾すのに薪の用意もしていないのはおかしいですよね。
まずは少しでも長く火を灯すにはどうするかを考えないと。
だから専門知識や経験、それから好奇心や意欲。
日本一として胸を張るなら、まずこれを正当に評価して生かして欲しいものです。
そのサイクルが出来てこその文化遺産じゃないかと思うのですが...
その額、1人あたり千円。
...随分安いな。
というのが実のところの感想だったりします。
確かに手ごろではあるんだけど、軽く手が出そうでちょっとヤラシイ額だなー。
ちなみにヒマラヤの場合は最低が10人で5000ドルだから1人頭500ドル程度らしい。
http://www.kachispo.com/k/124/
1ドルを100円とすると5万円か。
世界一の山だからっていうのもあるだろうけど、妥当かなと感じる。
危険であるし、何より管理が難しいのだからある程度高くて当然だと思う。
それから行くと富士山もどうだろうな...最低1万円は取った方が良いんじゃないだろうか。
ある程度の費用が集まればゴミ拾いなどもボランティアに頼らなくても済む。
そこに雇用が生まれれば「山が好き」というだけでも、それなりに生活をしていけるかもしれない。
生活サイクルの中にしっかり組み込めれば、本当に意味のある世界遺産になると思う。
そもそも私はボランティアという考え方が凄く嫌いなのだよね。
というのも、それは対価が見えない労働だからです。
これが短時間、短期間だったら経験という対価も期待できる。
その経験を元に起業したり、新しいアイデアを具現化したりすることで得られるものがある。
逆に長期間続いたり定期的に規則正しく行われると、その具現化、アウトプットの機会が奪われてしまう。
それでは仮に得られた経験も生かすことができない。
奉仕というのは聞こえは良いのだけど、度を過ぎれば悪影響になる。
得にこういう公共の問題において考える場合「対価」というのは常に頭に入れておく必要があると思う。
得に世界遺産で観光を思うなら、まずゴミ拾いやガイドの出来るプロフェッショナルを作る必要がある。
それには雇用もそうだし安全で確実なシステム作り、例外を認めない厳格なルール整備などが必要になってくるはず。
なのに入山料1000円という数字がそれをちゃんと想定できてるのかと考えると、正直疑問なのですよ。
同時にその思考サイクルの破綻がどうも日本の足を大きく引っ張っているなと思うわけです。
だって新しく火を熾すのに薪の用意もしていないのはおかしいですよね。
まずは少しでも長く火を灯すにはどうするかを考えないと。
だから専門知識や経験、それから好奇心や意欲。
日本一として胸を張るなら、まずこれを正当に評価して生かして欲しいものです。
そのサイクルが出来てこその文化遺産じゃないかと思うのですが...
なんで勉強するの?
不思議なもんで、学生から遠ざかると勉強の重要性って言うのが見えてくる。
だけどそれを現役の人に、例えば子供に聞かれて答えを伝えることが出来るだろうか?
私には少し自信がない。
手段は幾つかあると思う。
勉強しないとこうなっちゃうよ!というネガティブな話もそのうちの1つだ。
ただそれは、目の前にある分野に対する否定にもなる。
もし将来その分野に触れることがあれば、植えつけてしまったネガティブな視点はそこで花が咲く。
そうなると彼にとっては大きなマイナスになってしまう。
逆に勉強するとこういう良いことがあるよ!というポジティブな方法もある。
しかしそれは今彼の興味が向いている先には絶対に勝てない。
子供であれ大人であれ、後で満腹になるものより今の空腹を満たすほうを選ぶだろう。
しかしよく考えてみると私はこの質問自体に二面性を感じてくる。
勉強に興味があればこの質問は浮かばないが、もし興味自体がなければ聞いてこないはずだ。
もしかすると勉強の内容より、勉強をする「行為」自体に目が向かっているのかもしれない。
ここに何かのヒントや落とし穴があるような気がする。
子供がビデオゲームをやっていて何故楽しめるのか。
それは恐らく行為に対してのレスポンス、反応が早いからだと考えられる。
ゲームはAボタンを押せばどうなる、Bボタンを押せばどうなるというのがハッキリしている。
その行為は目の前の画面に即座に表示されるし、その正否も直ぐわかる。
だから一つ一つの調整、修正が効きやすいのだ。
ではゲームと比べて嫌われる勉強はどうか。
興味を引き出すように作られていないというのもあるが、成否までの反応が遅い。
そのため短時間で何か行為の手応えを得ることができない。
同時にそれは自分を長時間コントロールする必要があるということでもある。
多分、大抵の人が行為に疑問を持ってしまうのはそこなのだろう。
これを大人の仕事に例えてみるとこうなるかもしれない。
あなたは上司に指示されて大きな穴を掘る。
ただそれは何の意味があるのか、何に使うのかを知らされていない。
しかし毎日のようにそれをし続ける必要がある。
地中には多くの情報がある。
虫もいれば土や砂の状態、種類の変化もある。
しかしそこに興味を持てるのは余程珍しいタイプの人ではないだろうか。
大抵の人間は途中で自分がしている行為に疑問を感じるはずだ。
大人であれば別の仕事を探し、それにつくことができる。
だが子供は勉強という意味のわからない穴掘りから逃げることが出来ない。
それならどうするか。
穴掘りの後の話をしっかりすることが大切だろう。
例えば建築関係に興味があれば、君は勉強をすればあそこのビルを建てることが出来る。
ただそれには幾つかの知識が不可欠で、それを生かすにはこれらが必要になる。
そういう話を出来るかどうかでその穴掘りの価値は大きく変わる。
ではそれを伝えるにはどうすれば良いのか。
恐らく特別難しいことではないだろう。
周りの大人が勉強の理屈、面白味や構造、発展性を理解していれば良い。
君が理解すれば、また次の世界が見えて来るんだよ。
そう言って、ビデオゲームにおけるコンピュータの代わりをしてあげれば良い。
後は知識をただ詰め込むだけじゃなく、それをアウトプットする方法を一緒に考えて実行する。
ある意味では意味のわからない穴掘りに対して、子供以上に真剣に向かい合うことかもしれない。
私も例に漏れず勉強には疑問を持っていたし、ビデオゲームのほうが面白かった。
それでも今、この年になって勉強の楽しみというのが理解できている。
生きていればいつか理解できるものなら、きっとそのときにだって伝わるものだろう。
子供のときと特に違っているのは「アウトプットとの距離」かもしれない。
今は勉強したこと、考えたことが直ぐに実践できる場に居られている。
なので机の上に無く、紙の中に無い知識を吐き出す先を見つけること。
それが出来れば退屈で無機質な穴掘りも、大切な行為と感じられるのではないかと思う。
だけどそれを現役の人に、例えば子供に聞かれて答えを伝えることが出来るだろうか?
私には少し自信がない。
手段は幾つかあると思う。
勉強しないとこうなっちゃうよ!というネガティブな話もそのうちの1つだ。
ただそれは、目の前にある分野に対する否定にもなる。
もし将来その分野に触れることがあれば、植えつけてしまったネガティブな視点はそこで花が咲く。
そうなると彼にとっては大きなマイナスになってしまう。
逆に勉強するとこういう良いことがあるよ!というポジティブな方法もある。
しかしそれは今彼の興味が向いている先には絶対に勝てない。
子供であれ大人であれ、後で満腹になるものより今の空腹を満たすほうを選ぶだろう。
しかしよく考えてみると私はこの質問自体に二面性を感じてくる。
勉強に興味があればこの質問は浮かばないが、もし興味自体がなければ聞いてこないはずだ。
もしかすると勉強の内容より、勉強をする「行為」自体に目が向かっているのかもしれない。
ここに何かのヒントや落とし穴があるような気がする。
子供がビデオゲームをやっていて何故楽しめるのか。
それは恐らく行為に対してのレスポンス、反応が早いからだと考えられる。
ゲームはAボタンを押せばどうなる、Bボタンを押せばどうなるというのがハッキリしている。
その行為は目の前の画面に即座に表示されるし、その正否も直ぐわかる。
だから一つ一つの調整、修正が効きやすいのだ。
ではゲームと比べて嫌われる勉強はどうか。
興味を引き出すように作られていないというのもあるが、成否までの反応が遅い。
そのため短時間で何か行為の手応えを得ることができない。
同時にそれは自分を長時間コントロールする必要があるということでもある。
多分、大抵の人が行為に疑問を持ってしまうのはそこなのだろう。
これを大人の仕事に例えてみるとこうなるかもしれない。
あなたは上司に指示されて大きな穴を掘る。
ただそれは何の意味があるのか、何に使うのかを知らされていない。
しかし毎日のようにそれをし続ける必要がある。
地中には多くの情報がある。
虫もいれば土や砂の状態、種類の変化もある。
しかしそこに興味を持てるのは余程珍しいタイプの人ではないだろうか。
大抵の人間は途中で自分がしている行為に疑問を感じるはずだ。
大人であれば別の仕事を探し、それにつくことができる。
だが子供は勉強という意味のわからない穴掘りから逃げることが出来ない。
それならどうするか。
穴掘りの後の話をしっかりすることが大切だろう。
例えば建築関係に興味があれば、君は勉強をすればあそこのビルを建てることが出来る。
ただそれには幾つかの知識が不可欠で、それを生かすにはこれらが必要になる。
そういう話を出来るかどうかでその穴掘りの価値は大きく変わる。
ではそれを伝えるにはどうすれば良いのか。
恐らく特別難しいことではないだろう。
周りの大人が勉強の理屈、面白味や構造、発展性を理解していれば良い。
君が理解すれば、また次の世界が見えて来るんだよ。
そう言って、ビデオゲームにおけるコンピュータの代わりをしてあげれば良い。
後は知識をただ詰め込むだけじゃなく、それをアウトプットする方法を一緒に考えて実行する。
ある意味では意味のわからない穴掘りに対して、子供以上に真剣に向かい合うことかもしれない。
私も例に漏れず勉強には疑問を持っていたし、ビデオゲームのほうが面白かった。
それでも今、この年になって勉強の楽しみというのが理解できている。
生きていればいつか理解できるものなら、きっとそのときにだって伝わるものだろう。
子供のときと特に違っているのは「アウトプットとの距離」かもしれない。
今は勉強したこと、考えたことが直ぐに実践できる場に居られている。
なので机の上に無く、紙の中に無い知識を吐き出す先を見つけること。
それが出来れば退屈で無機質な穴掘りも、大切な行為と感じられるのではないかと思う。
2013年6月18日火曜日
イタリア人からイスラエル人へ。
お前はイスラエル人だな。
札幌時代に凄くお世話になった先輩の一言。
そのときの話題はと言うと「何人に似ているか」というものだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E4%BA%BA
ところで、何故にイスラエル人...
先輩曰く「人の話を聞かないし意志を曲げない」かららしい。
彼が思うところのイスラエル人というのは余程頑固な存在だったのだろう...ということは私も?
我ながら結構柔軟な人間だと思っていたのだけどな。
それと、とにかく理屈っぽいところ。
これに関してはわかる気がする。
多分、今、blog読んでくれてる人の大半が頷いただろうな。
話はそれからさらに遡るんだけど、別の人から「あなたはイタリア人になれ」と言われたことがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
確か女性にモテナイのを相談したのだったと思うけど、その時は真面目すぎるからダメなんだと言われた。
もっと言えば「良い女が居たら即口説け」、「とにかく相手を褒めろ」と。
確かにそれまでの私は真面目にネガティブだったし、相手の欠点ばかりが目に付いていた。
今考えると、そんな人生面白くないだろ?というニュアンスだったのかもしれない。
それ以来は出来るだけ良い部分を探すようにした。
失敗の中にも成功の種があるように、悪い中にも良いものがいっぱい見つかった。
それで出来上がったのが...何故か「イスラエル人だった」というのがなんとも不思議な話ではあるけど。
よく相手の褒め方がわからないって話を聞くことがある。
その人を見ていると、どうもそのときの私と同じように真面目にネガティブな人が多い。
多分、型に嵌ろうとしすぎて柔軟性が失われているのかもしれない。
私もそのときに非常に苦労した記憶がある。
色々試した結果上手くできたのは「特徴を見つけて、それをひっくり返してみること」だった。
そうしてみると長所だと思っていたところは意外な欠点になったり、短所は思いつかなかった利点になったりする。
大切なのは自分から見た長所短所じゃなくて、それを生かせるところで生かせるかどうか。
真面目さというのも同じで、それを上手く生かせていなければ欠点になってしまう。
それを知るには一回自分の目線を出来上がった価値観から外すことが必要になる。
私にとっては多分「イタリア人になれ」という一言がその機会だったのだろう。
最初は戸惑いながらも、手探りながらも徐々に理解が出来てきた。
それからは恋人も出来たし自信も持てたし...と、金以外は怪しげなグッズの売り文句のようになった。
結局の話、目の前の機会を生かすも殺すも自分の心がけ次第なのかもしれない。
これらの大切なものを教えてくれたその一言は、きっと生涯忘れられない存在だろう。
札幌時代に凄くお世話になった先輩の一言。
そのときの話題はと言うと「何人に似ているか」というものだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E4%BA%BA
ところで、何故にイスラエル人...
先輩曰く「人の話を聞かないし意志を曲げない」かららしい。
彼が思うところのイスラエル人というのは余程頑固な存在だったのだろう...ということは私も?
我ながら結構柔軟な人間だと思っていたのだけどな。
それと、とにかく理屈っぽいところ。
これに関してはわかる気がする。
多分、今、blog読んでくれてる人の大半が頷いただろうな。
話はそれからさらに遡るんだけど、別の人から「あなたはイタリア人になれ」と言われたことがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
確か女性にモテナイのを相談したのだったと思うけど、その時は真面目すぎるからダメなんだと言われた。
その人曰くもっと軽薄になりなさい、もっと気楽に生きなさいと。
もっと言えば「良い女が居たら即口説け」、「とにかく相手を褒めろ」と。
確かにそれまでの私は真面目にネガティブだったし、相手の欠点ばかりが目に付いていた。
今考えると、そんな人生面白くないだろ?というニュアンスだったのかもしれない。
それ以来は出来るだけ良い部分を探すようにした。
失敗の中にも成功の種があるように、悪い中にも良いものがいっぱい見つかった。
それで出来上がったのが...何故か「イスラエル人だった」というのがなんとも不思議な話ではあるけど。
よく相手の褒め方がわからないって話を聞くことがある。
その人を見ていると、どうもそのときの私と同じように真面目にネガティブな人が多い。
多分、型に嵌ろうとしすぎて柔軟性が失われているのかもしれない。
私もそのときに非常に苦労した記憶がある。
色々試した結果上手くできたのは「特徴を見つけて、それをひっくり返してみること」だった。
そうしてみると長所だと思っていたところは意外な欠点になったり、短所は思いつかなかった利点になったりする。
大切なのは自分から見た長所短所じゃなくて、それを生かせるところで生かせるかどうか。
真面目さというのも同じで、それを上手く生かせていなければ欠点になってしまう。
それを知るには一回自分の目線を出来上がった価値観から外すことが必要になる。
私にとっては多分「イタリア人になれ」という一言がその機会だったのだろう。
最初は戸惑いながらも、手探りながらも徐々に理解が出来てきた。
それからは恋人も出来たし自信も持てたし...と、金以外は怪しげなグッズの売り文句のようになった。
結局の話、目の前の機会を生かすも殺すも自分の心がけ次第なのかもしれない。
これらの大切なものを教えてくれたその一言は、きっと生涯忘れられない存在だろう。
2013年6月17日月曜日
宿題考察編
ARTORO第一回の宿題で出たのが「稲を発芽させてみよう」というものの考察編です。
http://toro-museumshop.jp/artoro
私はヘルシアのペットボトルとカップヌードルのカップに土を入れ、種をまいてみました。
http://geshimashita.blogspot.jp/2013/05/artoro_26.html
しかし手を加えずに基本的に放置しました。
3週間の間、水をやったのも一回(カップヌードルのみ)だけ。
カップヌードルは一度雨で水没したんで、水を少しこぼしました。
後はホントに忘れるくらい放っておきました。
理由は簡単で、植物は条件が揃えば勝手に発芽するから!...です。
結果としては勝手に発芽しました。
しかも結構元気に伸びていったので一安心。
これは考えるのに必要な”良い材料”になりそうだぞ。
実は登呂遺跡の高床式倉庫を見てから凄く疑問を持っていました。
竪穴式住居と同じく弥生時代の象徴とも呼べるものなんですが、何故あのような違いになったのか。
突然ですが、人間は基本「逃げ」の生き物です。
起きた結果から現象を捉え、それを意図的に再現することで数々の理屈を積み上げてきた。
言い方を変えると立ち向かわないことで”焦点を合わせる作業”が出来たのだと思います。
例えば火からは熱いから逃げる。
それでどこまでの範囲が熱いのか。
どこからが物質が変化(燃焼)するのかを把握できたからこそ管理ができるようになりました。
恐らく危険な動物に対しても、変化する天候も、植物においても同じでしょう。
だから高床式倉庫にしても何らかの「逃げ」があったと思うんです。
それがなんなのか、凄く気になっていました。
竪穴式住居と高床式倉庫を比較して見ると面白い違いがあります。
前者は下に掘り下げているのに対し、後者は上へ。
表現に私の理屈を取り入れるなら「高床式は大地から逃げている」となるでしょうか。
一体何故なんでしょうね?
多分、一番のポイントは湿気対策でしょう。
昔は風通しを良くすることで穀物の保存状態を良くしたというのを授業で習いました。
しかし変な話、直ぐに腐って食べられなくなるものなら保存にそんなに固執しないと思うんですよ。
植物だから生えてる時は食べる分だけ採れば良いし、無ければ無いなりに別のものを探す。
そもそも食べるものが全く無ければ、この地方は発展して無いでしょうしね。
あれこれ色々と考えた挙句、出てきたのが「勝手に発芽しちゃうんじゃない?」という仮説でした。
中学で豆か種か忘れたけど水とコットンとシャーレで発芽させる実験があったはず。
確か発芽の条件は水、温度だったような覚えが...
今回の実験の結果、やっぱりある程度は放っておいても芽は出る。
得にヘルシアは特別何もしていないわけだから、やはり湿気程度でもなんとかなりそう。
ということで得られた事象を、勝手に当時を推測しながら並べてみました。
1.どこかで稲の種を貰った。
2.保存が利くと聞いたので土器に入れて家で保存していた。
3.家の湿気と火による熱で発芽した。
4.一口食べてみるも「これじゃ食えない」とどこかに捨てた。
5.しばらくすると大きく育ち、実った。
このうち3.を回避するための高床式倉庫じゃないでしょうか。
保存状態を良くする考えって現代だと「腐らせない」になると思うんです。
でもそれは発芽条件を知っていて、その先の状態や流れが把握できてるからの発想。
当時なら発芽も腐敗も同じ状態の変化なはずなんです。
だから意図的に苗を育てたんじゃなくて、結果的に苗になってしまった。
結果は同じでも考える上で、この視点の違いはかなり大きいんじゃないかなと思います。
方や前向きな積極姿勢、方や後ろ向きな消極姿勢ですからね。
ただ捨てたはずが食えるようになった、少ない量だったのに増えたという衝撃は大きいはず。
よく「稲作が伝わった」って簡単に言うけど、そんなにパッと受け入れられないですよね。
畑でもない、水田でもない、身近などこかで稲の強さを認識する。
そこで初めて稲作を受け入れられる土壌ができるんだと思います。
しばらくして、もっとやりやすくしたい欲求が出てから地盤、農具の問題が生まれてくる。
それをするにはどうするかを考えた先に役割分担が出来る。
栄養状態が良くなれば、自然と勢力に差が現れる。
そして政治、宗教などの組織的なもの、近代化へと繋がっていくのでしょう。
だから文明とは単純な「成長発展」ではなくもっと消極的なものなのかな、とも思うのです。
今回の実験はそういう長年の疑問に向き合うのに凄く重要だったと思います。
同時にもっと早くから挑戦していれば、私は今の私とは違う私だったのかもしれません。
そう考えると...やっぱり消極的過ぎるのも良くないことなのかもしれないですね。
http://toro-museumshop.jp/artoro
私はヘルシアのペットボトルとカップヌードルのカップに土を入れ、種をまいてみました。
http://geshimashita.blogspot.jp/2013/05/artoro_26.html
しかし手を加えずに基本的に放置しました。
3週間の間、水をやったのも一回(カップヌードルのみ)だけ。
カップヌードルは一度雨で水没したんで、水を少しこぼしました。
後はホントに忘れるくらい放っておきました。
理由は簡単で、植物は条件が揃えば勝手に発芽するから!...です。
結果としては勝手に発芽しました。
しかも結構元気に伸びていったので一安心。
これは考えるのに必要な”良い材料”になりそうだぞ。
実は登呂遺跡の高床式倉庫を見てから凄く疑問を持っていました。
竪穴式住居と同じく弥生時代の象徴とも呼べるものなんですが、何故あのような違いになったのか。
突然ですが、人間は基本「逃げ」の生き物です。
起きた結果から現象を捉え、それを意図的に再現することで数々の理屈を積み上げてきた。
言い方を変えると立ち向かわないことで”焦点を合わせる作業”が出来たのだと思います。
それでどこまでの範囲が熱いのか。
どこからが物質が変化(燃焼)するのかを把握できたからこそ管理ができるようになりました。
恐らく危険な動物に対しても、変化する天候も、植物においても同じでしょう。
だから高床式倉庫にしても何らかの「逃げ」があったと思うんです。
それがなんなのか、凄く気になっていました。
竪穴式住居と高床式倉庫を比較して見ると面白い違いがあります。
前者は下に掘り下げているのに対し、後者は上へ。
表現に私の理屈を取り入れるなら「高床式は大地から逃げている」となるでしょうか。
一体何故なんでしょうね?
多分、一番のポイントは湿気対策でしょう。
昔は風通しを良くすることで穀物の保存状態を良くしたというのを授業で習いました。
しかし変な話、直ぐに腐って食べられなくなるものなら保存にそんなに固執しないと思うんですよ。
植物だから生えてる時は食べる分だけ採れば良いし、無ければ無いなりに別のものを探す。
そもそも食べるものが全く無ければ、この地方は発展して無いでしょうしね。
あれこれ色々と考えた挙句、出てきたのが「勝手に発芽しちゃうんじゃない?」という仮説でした。
中学で豆か種か忘れたけど水とコットンとシャーレで発芽させる実験があったはず。
確か発芽の条件は水、温度だったような覚えが...
今回の実験の結果、やっぱりある程度は放っておいても芽は出る。
得にヘルシアは特別何もしていないわけだから、やはり湿気程度でもなんとかなりそう。
ということで得られた事象を、勝手に当時を推測しながら並べてみました。
1.どこかで稲の種を貰った。
2.保存が利くと聞いたので土器に入れて家で保存していた。
3.家の湿気と火による熱で発芽した。
4.一口食べてみるも「これじゃ食えない」とどこかに捨てた。
5.しばらくすると大きく育ち、実った。
このうち3.を回避するための高床式倉庫じゃないでしょうか。
保存状態を良くする考えって現代だと「腐らせない」になると思うんです。
でもそれは発芽条件を知っていて、その先の状態や流れが把握できてるからの発想。
当時なら発芽も腐敗も同じ状態の変化なはずなんです。
だから意図的に苗を育てたんじゃなくて、結果的に苗になってしまった。
結果は同じでも考える上で、この視点の違いはかなり大きいんじゃないかなと思います。
方や前向きな積極姿勢、方や後ろ向きな消極姿勢ですからね。
ただ捨てたはずが食えるようになった、少ない量だったのに増えたという衝撃は大きいはず。
よく「稲作が伝わった」って簡単に言うけど、そんなにパッと受け入れられないですよね。
畑でもない、水田でもない、身近などこかで稲の強さを認識する。
そこで初めて稲作を受け入れられる土壌ができるんだと思います。
しばらくして、もっとやりやすくしたい欲求が出てから地盤、農具の問題が生まれてくる。
それをするにはどうするかを考えた先に役割分担が出来る。
栄養状態が良くなれば、自然と勢力に差が現れる。
そして政治、宗教などの組織的なもの、近代化へと繋がっていくのでしょう。
だから文明とは単純な「成長発展」ではなくもっと消極的なものなのかな、とも思うのです。
今回の実験はそういう長年の疑問に向き合うのに凄く重要だったと思います。
同時にもっと早くから挑戦していれば、私は今の私とは違う私だったのかもしれません。
そう考えると...やっぱり消極的過ぎるのも良くないことなのかもしれないですね。
2013年6月16日日曜日
コッツウォルズ
先日、BS日テレの「世界水紀行」という番組を見ていた。
http://www.bs4.jp/w_mizu/
最近のテレビは綺麗だ。
そして画面が大きいからこういうゆったりとした旅番組が凄く映える。
BSだけじゃなくて普通の地デジもこういう感じになってほしいな。
今、素直に「わくわく動物ランド」とかやったら面白いのかもね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%8F%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
それはさておき、水紀行。
今回の旅はイギリスのコッツウォルズだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BA
実は新婚旅行でウィーンと最後まで争ったのがここだった。
水が綺麗だし自然は多いし、この長閑で静かな景色を二人で味わうのも良いな...と考えていた。
今や足を運ばなくてもネットで雰囲気が伝わるような時代。
動きや音を連れてきてくれるテレビなら尚のこと、そこに行ったかのような気分になる。
だから見ていて「やっぱり素敵だな」と感じた。
歴史や文化を紹介されながら、その見事な景色を見てまどろむ。
その中で、私は何故か不意に違和感を感じた。
テレビに映る景色、歴史に憧れを感じている自分。
だけど、今私がそれを感じることが出来るのはテレビという文明の機器があるからだ。
それが無ければ私はここに触れることも、憧れることもできなかった。
言い方を変えると遠い国の私が触れられるものではなかったから。
知りえることがなかったからこそ維持されたものでもある、と。
文明化というのはある程度、文化や歴史、景色などを否定することで成し得る物。
私のところまで情報が届くまで、私が心地良く感じるまで多くの否定があったのだろうな。
そう考えたらその矛盾が妙に気になってしまった。
ウィーンでも感じたのだけど、文明と文化、歴史や景色はなかなか共存が出来ない。
共生することはできるが、その意味合い、姿形をそのまま変えずに過ごすのは難しい。
何よりその景色もそうした変化があって生まれたものだ。
変化を否定してしまえば、それらの成り立ちすらも否定せざるを得なくなる。
そこで多くの矛盾に支えられた世界に対し、うーん...と考え込んでしまう。
今とは一体どんな存在なのか。
文明という生き物に少し尋ねてみたい気がした。
http://www.bs4.jp/w_mizu/
最近のテレビは綺麗だ。
そして画面が大きいからこういうゆったりとした旅番組が凄く映える。
BSだけじゃなくて普通の地デジもこういう感じになってほしいな。
今、素直に「わくわく動物ランド」とかやったら面白いのかもね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%8F%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
それはさておき、水紀行。
今回の旅はイギリスのコッツウォルズだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BA
実は新婚旅行でウィーンと最後まで争ったのがここだった。
水が綺麗だし自然は多いし、この長閑で静かな景色を二人で味わうのも良いな...と考えていた。
今や足を運ばなくてもネットで雰囲気が伝わるような時代。
動きや音を連れてきてくれるテレビなら尚のこと、そこに行ったかのような気分になる。
だから見ていて「やっぱり素敵だな」と感じた。
歴史や文化を紹介されながら、その見事な景色を見てまどろむ。
その中で、私は何故か不意に違和感を感じた。
テレビに映る景色、歴史に憧れを感じている自分。
だけど、今私がそれを感じることが出来るのはテレビという文明の機器があるからだ。
それが無ければ私はここに触れることも、憧れることもできなかった。
言い方を変えると遠い国の私が触れられるものではなかったから。
知りえることがなかったからこそ維持されたものでもある、と。
文明化というのはある程度、文化や歴史、景色などを否定することで成し得る物。
私のところまで情報が届くまで、私が心地良く感じるまで多くの否定があったのだろうな。
そう考えたらその矛盾が妙に気になってしまった。
ウィーンでも感じたのだけど、文明と文化、歴史や景色はなかなか共存が出来ない。
共生することはできるが、その意味合い、姿形をそのまま変えずに過ごすのは難しい。
何よりその景色もそうした変化があって生まれたものだ。
変化を否定してしまえば、それらの成り立ちすらも否定せざるを得なくなる。
そこで多くの矛盾に支えられた世界に対し、うーん...と考え込んでしまう。
今とは一体どんな存在なのか。
文明という生き物に少し尋ねてみたい気がした。
2013年6月15日土曜日
モーツアルトの出勤
ウィーンで一番印象に残ったのはなんだろう?
1ヶ月程経った今、改めて振り返ってみる。
建物、歴史、街並み。
思い出してみるとキリが無いくらいの衝撃。
その中で一番これは!と強く印象に残っていることと言うと「モーツアルトの出勤」かな。
泊まったホテルの前にはオペラ座がある。
http://www.wiener-staatsoper.at/Content.Node/home/Startseite-Content.de.php
ここは第一次世界大戦。
オーストリアが枢軸国として敗戦した戦争で全壊した場所だ。
現在は復元され、その後は今も様々な演劇やコンサートの会場として使用されている。
で、そこには楽友協会なのかダフ屋さんなのかわからないんだけど、手売りでチケットを販売。
なので日本人が通りがかると「コンニチハ、コンバンワ、オ元気デスカー?ワタシ日本大好キヨー」と怪しげな日本語が投げかけられる。
その人たちの格好がまるでモーツアルトなのだ。
白髪のカツラに...大人し目のタケちゃんマン?みたいな上着にスパッツのような格好。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=7WCyTht60bM
よくわからないんだけど、そんな人たちが毎日のように余ったチケットを売っていた。
でも取り締ったりしてないみたいだからちゃんとした仕事なのかな...
朝の9時ころ、彼らは急に現れる。
普段どこで着替えてるんだろ?と疑問に思っていたのだけど、売り子をする格好。
そのままで地下鉄のエスカレーターをそのまま上がってきたのだ。
隣のトラム(路面列車)の駅方向からも数人やってくる。
中世みたいな街中を現代人が歩く中、自然な顔してモーツアルトが歩いているのだから驚く。
日本で言うと仮面ライダーショーの出演者が家から仮面ライダーで来るみたいな感じだろうか。
それとも家から侍や忍者が映画村に出向くような?
しかしそれがさも自然で、本人たちからまったく違和感を感じない。
むしろ驚いていた私が変なのかな、という気分さえしてくる。
彼らだけでなく、観光用の馬車(フィアカー)も朝になるとその姿のまま「出勤」してくるのだ。
http://www.wien.info/ja/sightseeing/fiaker-horse-drawn-carriage
車道をカッポカッポと進む馬車。
もちろん右折や左折も自動車と同じように行うし、しっかりナンバーもついていた。
彼らにとってはそれが作業服であり制服であるわけだから、それがきっと自然なのだろう。
でも私には街並みや美術品達以上に衝撃を受けた出来事だった。
状況を考える限りではまあ確かに、とは思うものの...
1ヶ月程経った今、改めて振り返ってみる。
建物、歴史、街並み。
思い出してみるとキリが無いくらいの衝撃。
その中で一番これは!と強く印象に残っていることと言うと「モーツアルトの出勤」かな。
泊まったホテルの前にはオペラ座がある。
http://www.wiener-staatsoper.at/Content.Node/home/Startseite-Content.de.php
ここは第一次世界大戦。
オーストリアが枢軸国として敗戦した戦争で全壊した場所だ。
現在は復元され、その後は今も様々な演劇やコンサートの会場として使用されている。
で、そこには楽友協会なのかダフ屋さんなのかわからないんだけど、手売りでチケットを販売。
なので日本人が通りがかると「コンニチハ、コンバンワ、オ元気デスカー?ワタシ日本大好キヨー」と怪しげな日本語が投げかけられる。
その人たちの格好がまるでモーツアルトなのだ。
白髪のカツラに...大人し目のタケちゃんマン?みたいな上着にスパッツのような格好。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=7WCyTht60bM
よくわからないんだけど、そんな人たちが毎日のように余ったチケットを売っていた。
でも取り締ったりしてないみたいだからちゃんとした仕事なのかな...
朝の9時ころ、彼らは急に現れる。
普段どこで着替えてるんだろ?と疑問に思っていたのだけど、売り子をする格好。
そのままで地下鉄のエスカレーターをそのまま上がってきたのだ。
隣のトラム(路面列車)の駅方向からも数人やってくる。
中世みたいな街中を現代人が歩く中、自然な顔してモーツアルトが歩いているのだから驚く。
日本で言うと仮面ライダーショーの出演者が家から仮面ライダーで来るみたいな感じだろうか。
それとも家から侍や忍者が映画村に出向くような?
しかしそれがさも自然で、本人たちからまったく違和感を感じない。
むしろ驚いていた私が変なのかな、という気分さえしてくる。
彼らだけでなく、観光用の馬車(フィアカー)も朝になるとその姿のまま「出勤」してくるのだ。
http://www.wien.info/ja/sightseeing/fiaker-horse-drawn-carriage
車道をカッポカッポと進む馬車。
もちろん右折や左折も自動車と同じように行うし、しっかりナンバーもついていた。
彼らにとってはそれが作業服であり制服であるわけだから、それがきっと自然なのだろう。
でも私には街並みや美術品達以上に衝撃を受けた出来事だった。
状況を考える限りではまあ確かに、とは思うものの...
2013年6月14日金曜日
宇宙人と顕微鏡
中学生のころ、理科の実験で池から水を採取してきた。
それをスライドグラスに載せて、顕微鏡で眺める。
するとふと人のようなものが見えた。
おかしいな?なんだろ?
顕微鏡から目をはずして確認してみたけど、誰かのいたずらじゃないらしい。
もう一度眺めると目が合った、そして慌ててゾウリムシの後ろに隠れた。
動きや姿が凄く人っぽいのだけど、どうも人じゃない。
これは小人?それとも宇宙人?
わからないまま時間は過ぎ、結局そこからは何もないまま季節が過ぎた。
数ヶ月経ってから再び採取する授業があった。
またカバーグラスをして、顕微鏡で眺める。
すると今度は数人で狩りをしている人のようなものが見えた。
おかしいな?またか?
彼らは集団でミジンコを襲っている。
落とし穴に誘い込み、槍を持ち、ミジンコを討っている。
多分今日の食事なのだろう。
そんなことを考えてるとまた目が合った。
彼らは小人?それとも宇宙人?
わからないまま時間は過ぎ、結局そこからは満足そうな彼らを眺めて終わった。
数年経ってから、ふと空を見上げて見た。
何か透明な、光る何かが見える。
もしかするとその先には...と思い、私は手を振ってみた。
誰かと目が合った気がする。
私たちは小人?それとも宇宙人?
わからないまましばらく、その不思議な何かを眺めていた。
それをスライドグラスに載せて、顕微鏡で眺める。
するとふと人のようなものが見えた。
おかしいな?なんだろ?
顕微鏡から目をはずして確認してみたけど、誰かのいたずらじゃないらしい。
もう一度眺めると目が合った、そして慌ててゾウリムシの後ろに隠れた。
動きや姿が凄く人っぽいのだけど、どうも人じゃない。
これは小人?それとも宇宙人?
わからないまま時間は過ぎ、結局そこからは何もないまま季節が過ぎた。
数ヶ月経ってから再び採取する授業があった。
またカバーグラスをして、顕微鏡で眺める。
すると今度は数人で狩りをしている人のようなものが見えた。
おかしいな?またか?
彼らは集団でミジンコを襲っている。
落とし穴に誘い込み、槍を持ち、ミジンコを討っている。
多分今日の食事なのだろう。
そんなことを考えてるとまた目が合った。
彼らは小人?それとも宇宙人?
わからないまま時間は過ぎ、結局そこからは満足そうな彼らを眺めて終わった。
数年経ってから、ふと空を見上げて見た。
何か透明な、光る何かが見える。
もしかするとその先には...と思い、私は手を振ってみた。
誰かと目が合った気がする。
私たちは小人?それとも宇宙人?
わからないまましばらく、その不思議な何かを眺めていた。
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