2013年6月19日水曜日

なんで勉強するの?

不思議なもんで、学生から遠ざかると勉強の重要性って言うのが見えてくる。
だけどそれを現役の人に、例えば子供に聞かれて答えを伝えることが出来るだろうか?

私には少し自信がない。

手段は幾つかあると思う。
勉強しないとこうなっちゃうよ!というネガティブな話もそのうちの1つだ。
ただそれは、目の前にある分野に対する否定にもなる。

もし将来その分野に触れることがあれば、植えつけてしまったネガティブな視点はそこで花が咲く。
そうなると彼にとっては大きなマイナスになってしまう。

逆に勉強するとこういう良いことがあるよ!というポジティブな方法もある。
しかしそれは今彼の興味が向いている先には絶対に勝てない。

子供であれ大人であれ、後で満腹になるものより今の空腹を満たすほうを選ぶだろう。

しかしよく考えてみると私はこの質問自体に二面性を感じてくる。
勉強に興味があればこの質問は浮かばないが、もし興味自体がなければ聞いてこないはずだ。
もしかすると勉強の内容より、勉強をする「行為」自体に目が向かっているのかもしれない。

ここに何かのヒントや落とし穴があるような気がする。

子供がビデオゲームをやっていて何故楽しめるのか。
それは恐らく行為に対してのレスポンス、反応が早いからだと考えられる。

ゲームはAボタンを押せばどうなる、Bボタンを押せばどうなるというのがハッキリしている。
その行為は目の前の画面に即座に表示されるし、その正否も直ぐわかる。
だから一つ一つの調整、修正が効きやすいのだ。

ではゲームと比べて嫌われる勉強はどうか。
興味を引き出すように作られていないというのもあるが、成否までの反応が遅い。
そのため短時間で何か行為の手応えを得ることができない。

同時にそれは自分を長時間コントロールする必要があるということでもある。
多分、大抵の人が行為に疑問を持ってしまうのはそこなのだろう。

これを大人の仕事に例えてみるとこうなるかもしれない。

あなたは上司に指示されて大きな穴を掘る。
ただそれは何の意味があるのか、何に使うのかを知らされていない。
しかし毎日のようにそれをし続ける必要がある。

地中には多くの情報がある。
虫もいれば土や砂の状態、種類の変化もある。

しかしそこに興味を持てるのは余程珍しいタイプの人ではないだろうか。
大抵の人間は途中で自分がしている行為に疑問を感じるはずだ。

大人であれば別の仕事を探し、それにつくことができる。
だが子供は勉強という意味のわからない穴掘りから逃げることが出来ない。

それならどうするか。
穴掘りの後の話をしっかりすることが大切だろう。

例えば建築関係に興味があれば、君は勉強をすればあそこのビルを建てることが出来る。
ただそれには幾つかの知識が不可欠で、それを生かすにはこれらが必要になる。
そういう話を出来るかどうかでその穴掘りの価値は大きく変わる。

ではそれを伝えるにはどうすれば良いのか。

恐らく特別難しいことではないだろう。
周りの大人が勉強の理屈、面白味や構造、発展性を理解していれば良い。

君が理解すれば、また次の世界が見えて来るんだよ。

そう言って、ビデオゲームにおけるコンピュータの代わりをしてあげれば良い。
後は知識をただ詰め込むだけじゃなく、それをアウトプットする方法を一緒に考えて実行する。
ある意味では意味のわからない穴掘りに対して、子供以上に真剣に向かい合うことかもしれない。

私も例に漏れず勉強には疑問を持っていたし、ビデオゲームのほうが面白かった。

それでも今、この年になって勉強の楽しみというのが理解できている。
生きていればいつか理解できるものなら、きっとそのときにだって伝わるものだろう。
子供のときと特に違っているのは「アウトプットとの距離」かもしれない。

今は勉強したこと、考えたことが直ぐに実践できる場に居られている。

なので机の上に無く、紙の中に無い知識を吐き出す先を見つけること。
それが出来れば退屈で無機質な穴掘りも、大切な行為と感じられるのではないかと思う。

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