2013年6月25日火曜日

ボトルシップ・マン

漠然と「これを作りたいなあー」と思うものがある。
ただゴールの姿は見えてるのに、その道順がわからないことが多い。

なので、うーん...と悩んでしまう。

これはいっぱい考えて、組み上げて、頭の中で出来上がったもの。
それを取り出せなくて苦しんでいる、と言い換えることが出来るかもしれない。
出来上がったものに対しての出入り口が小さすぎるのだ。

多分、頭の中でボトルシップを作ってしまったのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97

元々部品を素直に外で組めば良いのだと思う。
そうしたら風呂でだって川でだって海でだって船を浮かべることが出来る。

ただ、たまたまボトルの中で作ってしまったからそれが出来ない。

この世の中の多くは、そうしたボトルシップ・マンがいっぱい暮らしていると思う。
私もそのうちの1人だと思うのだけど、組み上げたアイデアをどう頭の中から出すのかで悩む。
簡単に考えると丁寧に部品を外し、少しずつ外に持ち出せば良いはず。

なのだけど、何せ会心の出来栄えだ。
何とかしてそのまま瓶から出せないかと悩んでしまう。

しかもボトルが透明なら良かっただろうに。
これがまた骨に覆われ、皮膚に覆われ、中身が見れないと来ている。
だから唯一の口から、その見事な姿を必死に言葉で伝えようとしてしまうのだろう。

しかし悲しいことにそれでは伝わらないから頭の中だけで孤独な航海を続けていくことになる。

もしかすると町ですれ違う人はみんなそんな孤独な船乗りなのかもしれない。
人というのはなんとも、器用な分だけ不器用であるね。

2013年6月24日月曜日

topgear

先日、相方とtopgearをチビチビと見始めました。
現在シーズン7まで来たんですが、本放送はもう20まであるんですね。

中身が良い意味で「イカレてる」のが凄く楽しい。
実験なのかただの無茶なのか...いや、ただの無茶な実験なのかな。
わからないんだけど、その実験や表現についてちゃんとした基準や理屈があって安心できます。

番組のつくりに必ず驚きと納得の繰り返しがあるのが良いですね。
だからでしょうか、オッサンが楽しそうにヒートアップしてるのを見ててカッコ良く感じます。

メイン司会のジェレミーなんて、ただの偏屈なのにね。

でも変なところは変、ダメなところはダメ、おかしいところはおかしいとちゃんと言ってくれる。
見ていて「どうなんだろ?」って気になるところをちゃんと指摘するから、なるほど!と思える。
もちろん、褒めるときはしっかり褒めるのも良い。

日本のバラエティみたいに冷やかし風じゃなく、真剣にやってるのが素晴らしい。

だから自分のイメージだけでこういう印象になってたんだなって感じることも多い。
逆に考えがあってた!っていうところも多い。

こういう見る側と縁者に共通点が出来る番組はやっぱり売れるよね。

topgearを見た後にスカパーでチラッと見た車の番組があったんだけど...なんかヌルい。
知識がある人が知識がある人に伝えてるというか、知識がない人はおいていかれるというか。
聞いていて「これが言いたい」ってポイントが全然つかめない。

見ていて凄く不思議だった。

だって方や英語の、細かい表現なんてわからない字幕のテレビ番組。
もう一方は自分と同じ日本語を使っているテレビ番組。
普通に考えたら前者に出番はないだろう。

でも言いたいこと、体温がしっかり伝わってくるのは圧倒的に前者だ。

だから面白く感じるのもやっぱり前者だし、また見たくなるのもやっぱり前者だ。

これはもしかすると「外国かぶれ」になった私の偏見なのかもしれない。
でも疑問をしっかり形にしたり、それを伝えようと色んな手法を取ったりする事は良い事だと思う。

そう言う意味でもtopgearは「よく考えられた番組」だなと感じる。

使用機材:appleTV

使用サービス:Hulu






2013年6月22日土曜日

視力

私は視力が低いのでメガネが手放せない。

しかし先日、ちょっとしたアクシデントがあり歪んでしまった!
目というのは人の脳が光を取り込み、情報を判別するための道具だ。
その道具の性能がおかしくなり、メガネという道具で補正している。

考えてみると非常に不思議な話でもある。

例えば割れたお湯飲みがあるとしよう。
それでお茶を飲むにはヒビ割れをなんとかする必要がある。
普通ならヒビ割れをなんとか埋めたり、お湯飲みを交換する方法をとると思う。

ただ目は内臓であり、なかなか治療や交換が効くものではない。
ではどうしたかというと...例えるなら割れたお湯のみを大きめのドンブリの中に入れて、そこにお茶を注いでいるような感じだろうか。

お茶を飲むにはもちろん不便だ。
慣れてしまえばどうということはないものの、やはり素直に飲むほうが良いに決まっている。

そう考えると少し前に流行った「メガネ男子」なんかは不思議な現象かもしれない。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%8D%E7%94%B7%E5%AD%90-%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88/dp/4757211740

ところで久々にメガネを外していて、ふと面白いなと思うところがあった。

メガネのない世界は単純に視界がボヤケていて、輪郭がハッキリしない。
室内だとわかりづらかったんだけど、外に出たときに「この絵はどこかで見たことがある!」と興奮してしまった。

いや、まあどこかで見たことあるって家の前だからね。
毎日見ている景色ではあるわけで、見たことがあるのは間違いない。
でもなんというか、妙に受ける印象が違っている。

なんだろう、なんか気になるな...頭の中で引っかかってるな...
そう思って考えてみたら、どうも写実主義と印象派の絵の違いに辿り着いた。

先日足を運んだウィーンのレオポルト美術館で見比べた感じに近い。
相方から話は聞いてはいたのだけど、なんでこんな表現になったのか不思議でしょうがなかった。

絵に輪郭を用意しないとは余程の変わり者か天邪鬼か...
とか思っていたのだけど、初めてその技法に気がついた人は目が悪かったのかもしれない。
だから自然と暗い絵よりも明るい絵を描くようになったのかな?と。

いや、いつもの勝手な推測なんで的外れかもしれないんだけどね。
もしそうだとすると、自分の目は凄く贅沢だなとも感じる。

結局はドンブリの中のお湯飲みではあるし、正直メガネなんて面倒くさい。
だけど目の前には写実と印象の二つの世界が常にあり、それを自由に選ぶことが出来る。
視力が良い人と比べると二面性のある世界をしっかり楽しめるのだ。

なのでたまにはメガネを外してボンヤリ歩いてみるのも良いのかもな、と思えた。
予期できないアクシデントもなかなか良い発見になるものだね。

2013年6月21日金曜日

幼虫小劇場

先日会社の入り口にダンゴムシが居た。
踏んで潰さないように指でつついて丸まらせて、安全なところへポイ。

ダンゴムシ、達者でな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%A0%E3%82%B7

その後ろには何故かカブトムシの幼虫のような生き物が居た。
体は白くて顔や足が黄色っぽくて、尾の先?には黒い内臓的なものがある。

なんとなく馴染みのある「This is 幼虫」みたいな幼虫だった。

これも潰さないように捕獲...しようと思ったのだけど、指で触るのは嫌だな...
そう思ったのでイラナイ紙を持ってきて、保護して、土の上に捨ててこようと判断。
早速実行に移してみた。

まずは紙を破いて適度な大きさにする。
それでチョン!と突く。

と「やーらーれーたー!」みたいなオーバーアクションの後、バタッと動かなくなる。

死んだかな?と思って観察してたら、少しの時間が経ってから動き出した。
紙の上に載せるためにもう一回やってみると、また同じ反応。

子供に「バーン!」と撃たれて「やーらーれーたー!」ってやるお父さんみたいな...
その大衆演劇、どこで習ったの?と聞きたくなるような大根演技っぷりだったのだけど、自衛本能なのか?
誰も何も教えてくれない幼虫でもこういうことやるんだな、と感心してしまった。

だってあいつら孤独で土の中にいるんだよ?

結局紙の上になんとか載せ、無事に土の上へ移動。
変なのに襲われなきゃ、無事に生き抜いてくれるでしょう。

そしていつか成虫になって再会したときには松田優作さん張りの演技で度肝を...
http://www.youtube.com/watch?v=gjl8ovjOm5A


死の概念

人の最終目標って言うと、多分「不老不死」になるんだろうな。

文明って言うものに気がついてから...
いや、支配されてからは少なからずその方向に向かっていると思う。
多分全ての生き物の中で、唯一「死に対する恐怖感」を持っているんじゃないだろうか。

そしてそこから逃げている。
逃げて逃げて逃げ切ろうとしている。

ただ面白いのが、距離をとれば取るほど恐怖感は増している気がする。
社会が少し過保護になってきているのはその表れじゃないだろうか。
同時にその恐怖感が文明という生き物の正体なのだとも思う。

ところで不老不死に辿り着いたとして。
人にとって死と言うのが身近なものではなくなる、もしくは概念化する。
その中で「終わり」への恐怖を持ち続けるのか、それとも興味や渇望を持つのかが気になる。

何故か。

簡単な話、普段であれば人は空気が失われたら?なんてことを考えることは無い。
それは無くならないという、ある程度「暗黙の前提」があるからだと思う。

例えば江戸時代などは彗星が来るなんて話があれば息を止めてやり過ごしたなんて話がある。
これはどこからか「彗星が空気をもっていってしまう」なんて噂が出てきたかららしい。
当時の天文学がどこまで進んでいたかは知らないが、非常に面白い現象だ。

というのもこの話、彗星をやり過ごしてしまえば安泰となってしまう。
言い方を変えると「危機が去れば空気が無くなることはない」となるのだろうか。

逆の例として空気の喪失に恐怖を感じるのは洞窟、潜水艦などの閉鎖的環境が挙げられる。
この状況であれば多くの人が「もし崩落したら」「何かの故障で」と考えてしまうだろう。
実際にそんなことが起きていなくても、気分だけで少し息苦しくなる。

しかしそう極端に考えなければ「空気が無くなるなんて」と思うのが普通じゃないだろうか。

だからもし今後不老不死に辿り着いたとして。
死の概念から今よりずっと遠ざかり、意識すらもしなくなったときに「どう考えるか」が気になってしまう。

野生動物や文明に触れる前の人間などは死の概念を持っていないと思う。
多分「油断すれば終わり」というくらいに死という存在が近いからじゃないだろうか。

私たちで言う空気のように、当たり前にそこに存在するもので特別に疑う必要性が無い。

文明に生きる上で感じる「恐怖」というのはもしかすると概念を持ってしまったからかもしれない。
栄養価が変化し、より身の危険から遠ざかることで、身近で見えなかった死というものが視覚に入ってしまった。
だから一目散に逃げることで、自然と不老不死へと向かっているのだろう。

でも遠ざかれば遠ざかるほど怖くなる。
逃げても逃げても逃げても、後ろを振り返ればいつもそこに居る。

人は文明化してまで死の概念から逃げている。
だけど面白いもので、自殺というのは環境の良い国や先進国の方が多いらしい。
どちらかというと死の概念に近い国や地域のほうが恐怖感を感じていないのかもしれない。

だとすれば。

人がこの先不老不死に辿り着いたとしても恐怖に終われて生きて行くだろう。
まるで西遊記のように、ヤンチャなサルは釈迦の掌から抜け出すことはできないのかもしれない。

そして生きて逃げ切れない恐怖に対して打てる手段は...
と結論を書くと怖くて寝れなくなるかもしれないからやめておきましょう。

2013年6月20日木曜日

ハナタレ小僧の見たアメリカ

今よりも遥か昔の話。
三保の海へ来た私は海の向こうに見える「それ」を見てこう思った。

いつかアメリカ行ってみたいな!

しばらくして「それ」がアメリカではないことに気がついた。
私がアメリカだと思っていた「それ」は伊豆半島。

知識がある今では「ねーよ!」と笑えるものの、当時は凄く真剣だった。

当時の私は駿河湾を太平洋だと思っていた。
というのも「海の向こうはアメリカ」という教え方をされたからだろう。
だからこの考えは間違っていない!と、今でもそう思っている。

素直な良い子じゃん!...とは流石に思わないけど。

でももしかすると、小さな私には「アメリカ」がちゃんと見えてたのかな?って気もする。
全てを知る前はその海の向こうでどんな人達がどんな生活をしているのか。

毎日ワクワクしながら考えていた。

今となってはあまりに遠い記憶となってしまった。
延々と先の見えない海で遮られていて、私の「アメリカ」がどんなものなのか思い出せない。
だけど「それ」を見る度に、目を輝かせてるハナタレ小僧の姿が見える。

...待ってろよ、いつか連れて行ってやるからな。

2013年6月19日水曜日

入山料

世界遺産に選ばれた富士山に入山料が課されるらしい。
その額、1人あたり千円。

...随分安いな。

というのが実のところの感想だったりします。
確かに手ごろではあるんだけど、軽く手が出そうでちょっとヤラシイ額だなー。

ちなみにヒマラヤの場合は最低が10人で5000ドルだから1人頭500ドル程度らしい。
http://www.kachispo.com/k/124/

1ドルを100円とすると5万円か。

世界一の山だからっていうのもあるだろうけど、妥当かなと感じる。
危険であるし、何より管理が難しいのだからある程度高くて当然だと思う。

それから行くと富士山もどうだろうな...最低1万円は取った方が良いんじゃないだろうか。

ある程度の費用が集まればゴミ拾いなどもボランティアに頼らなくても済む。
そこに雇用が生まれれば「山が好き」というだけでも、それなりに生活をしていけるかもしれない。
生活サイクルの中にしっかり組み込めれば、本当に意味のある世界遺産になると思う。

そもそも私はボランティアという考え方が凄く嫌いなのだよね。
というのも、それは対価が見えない労働だからです。

これが短時間、短期間だったら経験という対価も期待できる。

その経験を元に起業したり、新しいアイデアを具現化したりすることで得られるものがある。
逆に長期間続いたり定期的に規則正しく行われると、その具現化、アウトプットの機会が奪われてしまう。
それでは仮に得られた経験も生かすことができない。

奉仕というのは聞こえは良いのだけど、度を過ぎれば悪影響になる。
得にこういう公共の問題において考える場合「対価」というのは常に頭に入れておく必要があると思う。

得に世界遺産で観光を思うなら、まずゴミ拾いやガイドの出来るプロフェッショナルを作る必要がある。
それには雇用もそうだし安全で確実なシステム作り、例外を認めない厳格なルール整備などが必要になってくるはず。
なのに入山料1000円という数字がそれをちゃんと想定できてるのかと考えると、正直疑問なのですよ。

同時にその思考サイクルの破綻がどうも日本の足を大きく引っ張っているなと思うわけです。
だって新しく火を熾すのに薪の用意もしていないのはおかしいですよね。

まずは少しでも長く火を灯すにはどうするかを考えないと。

だから専門知識や経験、それから好奇心や意欲。
日本一として胸を張るなら、まずこれを正当に評価して生かして欲しいものです。
そのサイクルが出来てこその文化遺産じゃないかと思うのですが...